D—邪王星団4 〜吸血鬼ハンター12 菊地秀行 [#改ページ] 目次 第一章 魔城幽囚 第二章 歌姫の魔手 第三章 新たなる死影 第四章 三位一体説 第五章 アカシア記録(レコード)の果てに 第六章 月下戦場 第七章 絶対貴族 あとがき [#改ページ] 第一章 魔城幽囚    1  ——このわしも。  ヴァルキュアは何を言おうとしたのか。その想いを誰も理解し得ぬうちに、頭上を黒い美影身が飾った。  死を与えるべき者の精神《こころ》など、この若者は斟酌しない。  風を巻き、その風さえ断って打ち下ろされる刃の凄まじさ。  夜をも白日に変える火花を上げて受け止めたのは、“絶対貴族”ただひとり。  しかし、見よ。Dの剣とヴァルキュアの長剣——どちらもどちらを捩じ伏せられず跳ねられず、だが、舞い降りた途端、Dのしなやかな身体は盤石の重みを備えたかのように、“絶対貴族”の片膝を地につかせていた。  右手のみで保持した一刀が、徐々に徐々に圧倒的な力でもって、ヴァルキュアの長剣を押しひしいでいく。  だが、十文字に噛み合わさった刀身の下で、“絶対貴族”はにやりと笑った。口が耳まで裂けたかのような、邪悪な笑みであった。 「柄にもなく、このわしが想いにふけったか。——力でわしに片膝をつかせたのは、Dよ、おまえがはじめてだ」  笑みは深くなった。  刀身の動きが止まった。 「そして——最後だ!」  ぐん、と跳ね上がったのは長剣のみにあらず、仁王立ちになったヴァルキュアを、Dは跳ねとばされる空中で認めた。“絶対貴族”の力とは、これほどのものなのか。  だが——着地と同時に黒衣の姿は疾《はし》った。  胸もとへ吸い込まれる必殺の突きを、ヴァルキュアの剣が跳ね返し、しかし、体勢も崩れぬDの第二撃——横殴りの一刀は、これも受け止められながら、“絶対貴族”を大きくよろめかせた。  新たな突きから、飛燕《ひえん》のごとく跳んで逃げたのはヴァルキュアの方であった。黄金のガウンが慈しむようにその身体にまつわる。  彼はひとつ肩で息をした。 「——やはり、このヴァルキュアの城へとひとり入城し得た男だけのことはある。神祖も満足であったろう。わしもまだ本気になれずにおる。Dよ——わしの目的の成就は別の場所で見るがよい。我らの決着は、その後だ」  言うなり、彼は後退した。  Dはこれも足音ひとつたてずに後を追う。  ヴァルキュアは移動しつつ両眼を閉じた。 「我が妖剣“グレンキャリバー”よ。おまえにふさわしい相手の血を見ずに、いま別の世界へ送る。刃よ、そのとば口[#「とば口」に傍点]を造れ」  念じるようにつぶやくと、彼は右手の剣をはっしと打ち下ろした。 「いかん——下がれ!」  嗄れ声の叫びは水のごとく前方[#「前方」に傍点]へ流れた。  Dの身体もまた。  次の瞬間、ごおとどよめく風たちの唸りに巻き込まれるかのごとく、黒衣の姿は何もない空間に呑み込まれたのである。 “グレンキャリバー”の切り裂いた空間へ。  ごおごおと呑み込まれていく風の怒号を熟眠《うまい》のための歌声のように聴きながら、ヴァルキュアはもう一度、長剣をふりかぶった。 「放っておけば、この世の空気はすべて吸引されてしまうでな。Dよ、次に会うまで生きておれ」  彼は切った。正確に同じ空間《ばしょ》を。一撃目は切断、二撃目は封印——風はぴたりと熄《や》んだ。  そして、片頬に凄絶な微笑を刻んだ“絶対貴族”ローレンス・ヴァルキュアをのみそこに残して、鋼の世界を巡る風は、生ける死者の勝ちどきを伝えんものと、声を限りに吹きつのるのであった。  スーがマシューの部屋を出たのは、一〇分ほどしてからだった。  部屋の中で何があったのか、何を見たのか。スーは悲鳴を上げた。その表情は、しかし、疲労の翳を恐怖の名残というに留めて、どこか恍惚とゆるんでいるではないか。 「わかったかい、スー? おれのいた場所がどんなところか?」  マシューの口調は穏やかだが、眼は妖しく燃えている。期待の炎だ。燃料は危険な自信だった。  スーはかぶりをふった。淫らな色は消えていた。 「あんなこと……いけない。貴族の力を身につけさせてやるなんて……甘いことをささやかれて……駄目よ、兄さん……いけないわ」 「精神《こころ》はそう言っていないよ、スー」  マシューは不気味に笑った。声を荒げようともしない。穏やかなだけに、不気味さは一層、際立っていた。 「……駄目よ……マシュー……もう、あたしに、あんなもの、見せないで」 「いいや、明日も見るんだ。そして、理解しなくちゃならない。ヴァルキュア様が与えてくれるおれたちの運命を」  彼は妹の顎に手をかけて上向かせた。スーは逆らわなかった。  桜色の唇が震える様は可憐そのものだった。  マシューはそれを吸った。  長い妖しいキスであった。  眼を閉じて荒い息さえ吐くスーへ、 「また、明日だよ、スー」  こう言うと、彼はひとり部屋へ戻ってドアを閉じた。  この瞬間、車内の監視カメラは、コンピュータのメモリーへ尋常の光景を映しはじめたのである。  スーも部屋へ戻った。 「異常なし、か」  とブロージュ伯爵は、空中に映し出されたスーの姿から目を離さずにつぶやいた。  それから、電子の結合像へ向かって、 「そっちに異常は?」  と訊いた。 「ございません」  女の声が空中から応じた。無論、コンピュータの合成音である。 「ふーむ」  巨大な寝台の上で伯爵は腕を組んだ。 「——ご不審な点でも?」  と声が尋ねた。 「わしの見たところ、二人は仲直りしたのだ。スーはマシューの部屋の中で、昔の思い出を話し合い、手を取り合って、これまでのことを許した。そうだな?」 「さようでございます」  この応答までに、コンピュータはすでにチェックを終えているはずだ。 「その後、スーは外へ出て、送りに出たマシューに頬へキスされた。それにも間違いはないな?」 「ございません」 「それから、どうなった?」 「マシューは部屋へ戻り、スーもすぐに自室に引き取りました」 「不自然なところは?」 「ございません。すべて、時間の経過どおりに進行した事態でございます」 「おまえが騙される可能性は?」 「ございません」 「無限大の一パーセントでもか?」 「それならば、あらゆる可能性が生じます」 「あり得るというわけか——ご苦労」  とねぎらい、ブロージュは腕組みを解いて、いかつい顎をいじりはじめた。  脳裡にスーの顔があった。  ある一瞬を境に、表情に変化が生じたのだ。  兄のキスを頬に受けた感受性の強い妹の、羞恥に満ちた表情、と取れば取れないこともないが、キスは戸口から外へ出る寸前に受けた。その瞬間の表情と——外での表情が違うのだ。  時間がずれている——或いは、空間が異なるのか。 「あの兄貴の脳の中味、一時はエーテルであったな。そうしてヴァルキュアの声で話をした。兄の脳が戻っても、ヴァルキュアの精神が残っていないとは限るまい。——おい」 「お呼びでございますか?」  ふたたび女の声が応じた。 「どうも信用がおけんのだ。おまえ、自身のチェックができるのか?」 「専用動力が断たれぬ限り、常時行っております。休止はありません」 「チェックのレベルを上げろ」 「それには、私自身を構成し直さなくてはなりません」 「時間がかかるか?」 「いえ、瞬時に完了いたします」 「では——やれ」 「承知いたしました」  と言ってから、 「それでは——お別れでございます」 「ん?」  と伯爵は眉を寄せ、 「そうか——何年の付き合いになるかな?」 「七千年と少しでございます」 「——少々名残惜しいな」 「ありがとうございます」 「名前はあるのか?」 「昔、イブとつけていただきました」  伯爵は眼を閉じてうなずいた。  長いこと彼は忘れていたのだった。 「失礼いたします」  静寂が車内に下りた。一瞬のこと。 「——はじめまして」  と女の声が言った。少しの変化もない。 「これからお仕えさせていただきます。——名前をつけていただくと便利だと存じますが」 「イブだ」 「ありがとうございます。素敵な名前ですわ」 「先刻与えた指示を全うしろ」 「承知いたしました」  とイブは応じて、 「スーの表情に変化が見られます。データにある兄のキスによる肉体、精神的効果とは異なります」 「やはりな」  ブロージュ伯爵はうす笑いを浮かべた。 「ご苦労」  と告げてから、 「やはり危険な人物だったか。獅子身中の虫——しかし、殺せはせぬ。どうやってまともにする?」  長い長い廊下を、黄金のガウン姿が歩いていた。  床も壁も天井も、すべて精緻極まる彫刻で埋め尽くされていた。  優美な角をふりたてる一角獣《ユニコーン》、多角獣、煙のようなショールをまといつかせた妖精、獣身人面のグリフォン。そのすべてがヴァルキュアを見つめている。  やがて、彼は黒い扉の前に立ち止まった。  ただの金属とは思えないかがやきを放つ扉であった。表面に、左右の壁に点された蝋燭の炎がゆれている。  何かつぶやくと、扉は右へスライドして彼を迎え入れた。  背後で扉が閉じる。  五メートルほど前方に同じ扉がそびえていた。  それもくぐり抜けると三つめの扉があった。  三重の扉を通過して、彼はようやく広い空間に出た。  三メートルほど下の床面へ、通路がゆるやかなカーブを描きつつつづいている。  青い光に満ちた部屋であった。  長方形や三角形、正方形、台形といった分厚い石板が配置されている。それも幾何学的整然を無視するかのように、長方形の石板の一端に、二等辺三角形が、それも一端だけを接触させて微妙なバランスを保ち、円形に配置された正方形の石板を、わずか一枚の菱形が支えている。  床の上で、ヴァルキュアは立ち止まり、右方を向いた。  青い光を浴びて、黒衣の若者が立っていた。  優美な長剣を手にしたその姿からは、ヴァルキュア以外なら面をそむけずにはいられないほどの殺気が立ち昇っていた。 「——Dよ」  と“絶対貴族”は呼びかけた。    2 “グレンキャリバー”が鞘鳴りの音をたてた。  走り寄るDは黒く美しい死そのものであった。  かわすことはできなかった。  衝撃は肘まで届いた。  押しのけて、肩口へ斬り込んだ。Dは弧を描いてかわしつつ突きを放った。  冷たいものを背すじに感じながら、ヴァルキュアはDの刀身を左腋にはさみ込んだ。“絶対貴族”ならではの反射神経のみが可能にした技である。  間を置かず、ヴァルキュアは独楽のように身体を回転させた。  手を離す暇もなく、Dも同心円を描く——一八〇度でヴァルキュアは腋をくつろげた。  不動の剣士もこれには耐え切れなかった。  吹きとんだ姿は、あらゆるバランスを失っていた。  その心臓へ飛び来《きた》った“グレンキャリバー”の刀身——柄《つか》まで貫き通って背へ抜けた。  Dの身体は長剣と同じ方角へ飛び、背後の石板に激突した。  青白い光が全身を包み、呑み込んだ光が消えた後に、美影身の姿はなかった。  ヴァルキュアは憮然たる表情を崩さず近づき、石板に突き刺さった愛刀の柄を掴んで引き抜いた。 「キマよ」  と呼んだ。 「ここにございます」  背後で朱色の長衣が応じた。  ふり向きもせず、 「あれが、先刻わしと戦ったDか?」  ヴァルキュアは明らかに怒りをこらえていた。 「ご冗談を」  とキマは一礼した。 「あれでまず三分の一程度の実力かと。しかしながら——」 「ふむ」  ヴァルキュアはうなずいて、先を促した。 「この世に、Dとやらの実力を知悉しておるものは唯ひとり——いえ、その御方さえ、本当のところはどうか。つまり、いまのまがいもの[#「まがいもの」に傍点]の実力も測り切れないのでございます」 「奴の力はじきにわかる。そうしたら、わしは奴に勝てる。“神祖”がこの世に残した——」 「ヴァルキュアさま」 「わかっておる」  と“絶対貴族”は重々しく言った。 「それを口にすると、この身にもロクなことが起こらぬのでな。“神祖”め、またどこかでわしを監視しておるか。——それよりも、人間どもは何をしておる?」 「大公さまのお言葉どおり、待機中でございます」 「待てとは言ったが、何もせぬとは口にしてはおらん。スーラとカラスに命じよ。二人の子孫を即刻、わしのもとへ連れて参れ、と」  キマは深々と首肯《しゅこう》して消えた。 「さてと」  ヴァルキュアは空中に眼をやった。  Dが現われた。  その前方に奇妙な通路が広がっていた。  空中のスクリーンは、三次元CGに変わり、その構造を描き出した。  すぐに消えた。 「描写不可能」  の文字が浮かび上がり、ヴァルキュアの顔を悪鬼の笑いに変えた。 「それでも、おまえは行かねばならぬ。戻るとも戻れぬとも、その中で、おまえは正体をさらけ出し、わしはおまえに勝る」  彼は哄笑した。少しして、そのような高笑いは何年ぶりかと思った。このような中味のない虚ろな高笑いは。 「“ミノス王の迷路”じゃな」  嗄れ声には、やれやれという苦渋が溢れていた。 「あの“グレンキャリバー”とかいう剣、空間を切るのはともかくとして、思いの場所へつなぐことができると見える。かつて、歴史が語られる以前、ミノタウロスという人獣を封じ込めたという“ミノス王の迷路”——先史時代の伝説の名工ダイダロスの手になるそれ[#「それ」に傍点]を、忠実に再現できたのは“神祖”のみであった。それも、貴族文明の崩壊とともに破壊されたと聞いていたが、ここにあったとは、な」 「行くぞ」  とDが言った。 「ここで待つが得策だぞ」  と左手が言い返した。 「あの迷路へ入って脱出できた者はおらん。わしの方向感覚も、ちと自信がないわ。四次元以外の方角が封入されておる」 「ここにいても同じだ」  Dの眼は、前方に広がる通路の異常さを看破していた。  生きもののごとく、こちらへ近づいてくる。  接触するのを待たず、Dは歩き出した。  それはただの路ではなかった。  右へ折れると、Dはいつの間にか重力と垂直に移動しており、右下方に床と化した壁面が見えた。石段を下りれば、それはどこまでも上がっていくのであり、昇り階段は真っ逆さまに地下へと下りていくのだった。  並の人間はもちろん、貴族や方向感覚に傑出したものを持つ妖物といえど、三半規管に狂いが生じ、破壊されてしまい、自らの占める位置や姿勢すら識別不可能の状態に陥るであろう。 「どうじゃな?」  しばらくして嗄れ声が訊いた。 「情けない話だが、吐きそうじゃ。おまえ——見栄を張るなよ」 「出口は近いぞ」 「——ん? わかるのか!?」 「何とかな。道は刻々と様相を変える。寸秒の猶予もなく新たな通路が形成され、組み込まれていく。これが、ダイダロス工法の秘密だった。それでも、出口とそれにつながる通路はある」 「——でなくては、ミノタウロスも生け贄の娘と会えなかったろう」 “ミノス王の迷路”とは、彼の妃が生んだ人間と牛の混血児ミノタウロスを封じるための、果てしない牢獄であった。ミノタウロスは月にひとり、妙齢美女を食料として要求し、最後は、勇気ある美女の隠し持った糸巻きの糸を辿った勇者テシアスの剣の前に斃《たお》れたという。  糸巻きの糸がなくても、出口とその通路がわかるとDは告げたのであった。 「来るぞ」  不意にDは言った。 「どこにおる?」  まだ位置が掴めぬらしい左手の甲に双眸が浮かび、慌ただしく周囲を見廻した。  Dのいる通路は垂直の壁面と化していた。下方の床までは二〇〇メートルもある。高所恐怖症なら百回も心臓麻痺に襲われているだろう。  頭上から垂直に、床と平行に黒い球体が接近してきた。  Dは走った。  球体はDの頭上を越えて上昇し[#「上昇し」に傍点]、五メートルほど前方に着陸してのけた。艶光りする表面に、なぜかDの姿は映らない。その美しさに矛先が鈍るのを、球体自身が怖れるかのように。  Dの左手が閃き、白木の針が風を切った。  跳ね返るかと思いきや、ちょっかいのつもりのそれ[#「それ」に傍点]は、難なく球体にめり込み見えなくなった。吸い込まれるのに似ていた。  球体の表面に針と同じ数だけの光点が生じた。  音もなく、薄明の世界を白い光のすじが前後左右に走った。  それに触れたものは、みるみるDの視界から消失していった。 「いかん、こいつは“通路消し”じゃぞ!」  と左手が叫んだ。 「“神祖”の迷路にのみ存在するといわれる消却屋だ。迷路が滅茶苦茶になってしまう」  天井が消えた。壁も消えた。球体は自らを自在に回転旋回させて、あらゆるものの消去を企んでいるかのようであった。  その光の動きから何を掴んだか、Dは猛然と床を蹴った。  球体の光がその身を外れ、回転して戻るまで〇コンマ〇一秒——次の照射の幕間を縫った黒い影の右手で、白光がきらめいた。  ふるわれたのは、どのような剣技であったのか。球体が震え、真っぷたつに裂けて、溢れた光がみるみる通路を消滅させていったのは、跳躍したDが彼方へと走り去って後、数秒を経過してからであった。 「第一関門突破——通常達成可能率〇パーセント。複製《コピー》に数値と“現実”とを加えます」  コンピュータの声に、ヴァルキュア大公の身体は激しく痙攣した。  巨大な蜘蛛の巣に絡め取られた人型の虫が。  ヴァルキュアは全裸であった。その身体に巻きついたと思しい銀色の糸は、すべてコードであり、先端はことごとく“絶対貴族”の体内に直接もぐり込んでいるのだった。 「複製製作開始——被験体への強化措置開始」  声と同時に、大公の口から獣のような叫びが迸った。  コードから注がれるものは何なのか。彼の身体は血の気を失い、白蝋と化し、さらに暗紫色に変わった。  貴族が苦しむ。“絶対貴族”が。それはもはや人間が考え、感知し得るレベルの痛みではなかったであろう。そのもたらす苦痛を語るには、新たな概念を必要とする。  ヴァルキュアは耐えた。  腕のひとふりで、あらゆるコードは外すことができる。それでも耐え抜いた。  報酬は与えられねばならない。  痛みにかすむ視界の奥で、いま、ひとりの人間の形が整いつつあった。  青白い放電を空中に送り込みながら、輪郭が、腕が、肩が、腰が、下半身ができてゆく。  はためくコートの裾、鍔広の旅人帽《トラベラーズ・ハット》、右手にはすでに長剣が握りしめられて、殺戮のときを待っている。  Dだ。  複製とはこれか。  それでは先刻、ヴァルキュアが斃したDもまた複製か。彼はここで、想像を絶する苦痛に耐える求道者のごとく、何かを成し遂げようとしているのか。 「複製完成——強化措置完了」  ヴァルキュアは凄まじい響きを上げてうつ伏せに床へ倒れた。コードは一斉に抜けたのである。  その身を支える余裕もなく疲れ切った顔を、彼はぐいと持ち上げた。  見よ。その口から鼻孔から両耳から眼から、否、肛門からさえも紫煙が噴き上がっている。彼の内臓は無残に焼け爛れているに違いない。  それでも彼は立った。左手で上体を起こし、右膝を上げ、右手をそれにかけて力を加え、そして、立ち上がったときにはもう、床に置いた妖剣“グレンキャリバー”が手中にあった。  音もなくDが歩み寄る。  疾走に移ったとき、長剣は右八双に——すれ違いざま、それは腰の位置に跳んで横殴りにヴァルキュアの脇腹を切り裂いた。  Dはそのまま進んだ。  首のない胴と足だけが。  崩れ落ちる寸前に消滅したハンターをふり返りもせず、ヴァルキュアは負傷部分へ手を当てた。  二〇センチほど裂けている。ひと撫でで、それは跡形もなく消えた。 「勝ったとはいえぬか」  と彼は苦笑混じりに言った。 「このわしを心底怯えさせた男を、しかし、ヴァルキュアは越えてみせるぞ。Dよ、おまえが関門を突破するたびに明らかになる力が、わしをさらに強化する」  彼は両腕を頭上に広げた。  天井と床からおびただしい銀色のコードが草の芽か蛇のように生え出して、全身に食い込んだ。    3  誰が決定したのか、パフュム技官にはわからなかった。  だが、命令には従うしかない。それが組織というものの理想の姿なのだ。ここでは、貴族たちとは及びもつかないが、みなうまくやっていた。すべては大過なく処理され、異議も疑問も滅多に生じないのだった。  それでもパフュムは気になった。  遠く離れた大会議場のホールの一室で、首長と副首長が激しくいがみ合い、辺境すべてを破壊するつもりかと迫る副首長に対して、“絶対貴族”を斃すにはこれしかないと言い返す首長の攻防こそ知らなかったが、自分がこれから行う行為の結果は、想像力というものが根源的に欠落している彼の頭でも、容易に想像がついた。  コントロール・ルームには彼しかいなかった。  こんな化物を使用することは二度とないだろうという上層部の目算と、いざという場合、責任と良心の呵責とを同時に背負う人間は少ない方がいいという良心的判断の成果である。  いま、発射準備にかかれとの命令を、政庁のトップから受けた時点で、室内のライトは非常用の赤に変わっている。今度、元に戻るとき、結論はすでに出ているに違いない。  すなわち、「辺境全滅」のみならず、北半球全体の絶滅か——生存か。  それは神の思し召しだろうか、とパフュムはまた自問した。  北部辺境区域に生じたという事態については、彼にも知識があった。  その半分が虚報だとしても、おれはスイッチを押すだろう。何もかも、それが単なる噂にすぎなくても、これで拭い去ることができるなら、おれは押す。  神よ赦したまえ。あなたを裏切るのに、私はさして苦悩もいたしませんでした。  そのとき——  照明が青に変わった。  パネルの中央に位置する指示ライトが、激しく点滅を開始した。  パフュムはためらいもせず、神への祈りを短く口ずさむと、ライトのカバーを拳で叩き割り、ライト下の赤いボタンを、自信をこめて押した。  地球から約一億キロ——俗にいう“小惑星帯”《アステロイド・ベルト》のささやかなるひとつ、直径一〇〇メートル程度の小さな岩のかけらが、小さな噴射孔からまばゆい光を噴射させ、ゆっくりとその向きを変えつつあった。  これから、「北部辺境区」の一地点を叩きに出かけるのだ。  外へ出たいというスーの希望を、伯爵は柩の内部から、にべもなく拒否した。  すでに夜は明けて、周囲は黎明に満ちている。 「Dが戻るまで、この車には誰も入れんし、誰も出てはならん」  スーは食い下がった。どうしても、朝の新鮮な空気が吸いたい。ほんの五分でいいから。 「いいだろう」  と伯爵は折れた。スーの眼に涙を認めたのである。 「ただし五分だけだ。車のそばから離れるな」 「ありがとう!」  弾むような礼とともにスーからの連絡が途切れると、伯爵はこう命じた。 「ガードロイドをつけろ。マシューが、もしもあの娘に危害を加えようとしたら、その場で殺せ」  朝の空気の匂いは青草が代表する。  だが、見渡す限り平坦な黒い鋼の平原を覆う空気は、鉄の匂いがした。  マシューに手を引かれて、スーはみるみる一〇〇メートルも歩いた。 「この辺でいいだろう」  マシューの眼は、前方に向けられていた。  木だろうか。だとしたら、鉄の木だ。  柳に似た幹も髪の毛のような葉もそっくりだが、すべて黒光りする金属でできている。それが、この無機質の世界にふさわしい生命なのだろうか。  その陰へ入ってすぐ、マシューはポケットからナイフを取り出した。 「兄さん……何するの?」  さすがに身をこわばらせる妹へ、マシューは笑いかけた。誰もがそっぽを向きたくなるような笑いだった。 「何もしない。おまえの脆弱な精神に一本、筋金を通してやるんだ。怖がることはないよ。おまえは少しも痛くないんだからな」  猫なで声で言うマシューのナイフが、逆手に握られていることにスーは気がついた。  彼は左手でシャツのボタンを外して厚い胸を露出するや、 「兄さん!?」  スーの驚きの叫びも無視して、おのが手でおのが胸に刃先を突き立てたのである。のみならず、縦に一〇センチも裂いた。 「さあ、キスしてくれよ、スー」  溢れる鮮血は、しかし、思ったより少なかった。傷口から盛り上がったものの、したたりはしない。 「何するつもりなの、兄さん——やめて」  下がろうとして、スーは首すじを押さえられていることに気がついた。  髪の毛を掴まれ、ぐいと引きつけられた。  兄の血が鼻先にあった。 「わかるだろ、スー。これは大切な儀式なんだ。おまえに僕が見たものを理解してもらうための。そうして、おまえも僕も、この偉大な国とご領主のよき理解者となれる」 「嫌、やっぱり嫌——やめて」 「スー」  もうひと引きで、妹の愛らしい唇は兄の汚れた血潮を吸っていたかも知れない。だが、マシューはその異常な行為を全うすることができなかった。  彼の鼻を右から左へ、真紅の光条が刺し貫いたのである。  スーに危害を加えようとしたら殺せ——伯爵の指示に忠実なガード用アンドロイドが接近していたのだ。  だが、愕然とそちらを向いた兄妹の前で、不格好なメカ人形はがっくりと首を落とし、機能停止に陥ったところだった。  そのかたわらに立つ、艶《あで》やかな美女は—— 「歌姫カラス!?」  この妖女なら、歌声ひとつでアンドロイドを“死”に追いやることも不可能ではない。 “ヴァルキュアの七人”たる刺客も、残るは二人——たとえひとりになっても、恐るべき敵であることに変わりはない。それがいま、追いついたのだ。 「面白い子供騙しをはじめたわね、おかしな兄妹」  カラスは艶然と微笑した。 「貴族の寝首を掻くなら昼間、と思ってやって来たら、とんでもないままごと[#「ままごと」に傍点]をはじめていたものね。さ、二人とも、一緒においでなさい。こんな児戯《じぎ》よりずうっと早く、この世界を理解させてあげるわ」 「邪魔するな。これはおれの妹だ。おれが何とかする」 「あなた方は、どちらもあたしたちの敵なの。おとなしくいらっしゃい」  カラスは前へ出て、二人の手を掴んだ。冷気に骨がらみ凍りつき、兄妹は身悶えした。 「あっ!?」  と片手を離したのは、しかし、カラスであった。  肘のやや下がぱっくりと裂けて、ピンク色の肉を露呈している。  それはたちまちふさがったが、ナイフ片手に身構えたマシューをねめつける歌姫の表情は、みるみる剣呑さを増した。 「まず、あなたの方から眠らせるのがよさそうね。お聴きなさい」  聴いてはならじと切りかかるマシューのナイフを、スーを掴んだまま易々とかわし、カラスの唇から妖しくも美しいスキャットが流れはじめた。  マシューの動きが止まった。誰しも忘我の状態で聴き入らずにはいられない、カラスの恋歌であった。  妖女の白い手が、陽灼けしたマシューの手首を取ろうとのびる。  その肩を真紅の光矢が一閃して抜けた。  そちらに眼をやり、 「もう一台、いたか!?」  叫んでカラスの唇は死の曲を吐いた。  その喉もとを新たな火線が貫き、 「おのれ」  カラスは世にも凄まじい怨嗟の怒号を放つや、平原を西へと走り出した。  兄妹を押しのけるようにして、アンドロイドが現われ、小さくなりつつあるカラスへ、レーザーの火線を送った。  二度受けてのけぞり、妖女はそれきり見えなくなった。 「逃げたな」  身を乗り出して後を追っていたマシューが、こう言ってスーのところへ戻った。 「兄さん」 「今日はケチがついた。もうやめよう。明日再開だ」  と思いきりのいいところを見せて、マシューはシャツのボタンをはめた。ハンカチで血止めしたせいで、血は滲みもしない。 「兄さん——」  とスーが呼んだ。彼の方を見ていない。眼はやって来た方角を見つめている。 「——ん!?」  とマシューはすぐに気づいてふり向いた。  カラスと戦っているうちに、かなりの距離まで近づいていたに違いない。  三台の装甲輸送車は、それから一分とたたないうちに、二人のかたわらを過ぎかかり、そして、停止したのである。  車体を朝日が照らしている。  兄妹はその場を動かなかった。誰かが下りてくると思ったのである。 「——あの調査隊の車だわ」  スーが記憶を辿って解答した。  傷だらけの車体は白い光の中で身じろぎもしない。内部にささやかな気配も感じられないのである。 「おかしいわ」  二人は顔を見合わせ、すぐに、 「入ってみよう」  とマシューがドアの方へ近づいた。 「やめて、兄さん。おかしいわ。運転席に誰もいないのよ。朝日の下に出たとき止まるなんて、まともじゃないわ」  マシューはにやりと笑って、 「伯爵の車と同じだな。それなら怖くないさ」  すでに異形のものに侵されている若者の精神は、同類の気配を察していたのかも知れない。  素早い身のこなしで一段高い運転席へ昇って内部をのぞき、 「いない」  と車体の昇降口へ移った。  ノブに手をかけてゆすり、 「内側《なか》からロックされてるな、これじゃあ開けられない。——おい」  スーはふり向いた。二〇メートルほど向うから、ガードロイドの武骨な身体が滑るようにやって来た。  鼻のつけ根を射ち抜かれた怨みも忘れたらしく、 「おい、このドア何とかしろや」  と平手で叩いた。  伯爵のアンドロイドが、どこまで自分の指示に従うか、マシューにも見当はつかなかった。  いきなり、真紅の光条がドア・ノブを貫いた。  一秒とかからず、束の間のかがやきは消滅した。 「話がわかるな」  マシューがうすく笑って、ノブに手をかけ、 「あち」  と引っ込めた。  結局、アンドロイドの出番になった。  合金製のアームが、なおも灼熱する窪みに器用に指をかけて引いた。 「どけどけ」  と車内をのぞき込んで、マシューは硬直した。 「兄さん」  スーの声に押されたように、車内へのステップを昇っていく。その後ろ姿に歓喜に似た感情を読み取り、スーは戦慄した。  そのくせ、自分ものぞき見たいという欲望を抑えることができなかった。 「ごめんね」  とアンドロイドに挨拶して、横からステップに足をかけた。  途端に身体が震えた。  言いようのない冷気が満ちていたのである。これは——ブロージュ伯爵とミランダ公爵夫人に初めて会ったときと同じ感覚だ。  ——まさか。  スーは下りようと思った。しかし、そんな思考とは裏腹に、足はステップを昇りつづけた。  左右の壁には、ハンモックが装着され、床にも通路のスペース以外は、寝袋でびっしりだ。  それも、ドアから入る光のおかげでわかる。  窓は黒く塗りつぶされていた。彼らは闇の中にさらなる暗黒を求めたのだろうか。  いや、光の中に、だ。  寝袋から出た男たちの顔には見覚えがあった。  少しだけ印象が異なるのは、やむを得ない。  顔色は蝋に似て、そこだけ異様に朱い唇からは、二本の牙が惜しみなく突き出している。 「一体……どうしたの……」  つぶやいたとき、足が床の寝袋に触れた。  確かケニと呼ばれていた男である。  かっと瞼が開いた。下の眼球は朱く燃えていた。  牙をがちがちと鳴らして、 「寝入りばなを起こすな」  とケニはクレームをつけた。 [#改ページ] 第二章 歌姫の魔手    1  すでに三体の敵を斃していた。  斬り倒されるたびに、より強力な装甲をまとって復活する寄生生物、まやかしの通路をこしらえ、自分の口の中へ導こうとする幻覚獣、Dの体内——DNAへと入り込み、遺伝子レベルから食らい尽くそうと企む人食いヴィールス。——ことごとくDの前に敗北した。 「あれで最後だろう」  と嗄れ声が、飽き飽きした風に言った。こちらもどんな神経か、手のひらに小さな口が浮かんで欠伸まで洩らした。 「いよいよ出口じゃが、ひとつ気になることがある」  小さな眼が、思わせぶりにDの方を見上げたが、こちらは冷やかに無視して歩を進めていく。  聞こえないようけっ[#「けっ」に傍点]と吐き捨て、左手は半ば意地でつづけた。 「これまでに斃した奴らから、こと切れる寸前、一種の“通信”が送られておるのじゃ。あいつらが、おまえに関して送信する情報といえば、まずはその実力——つまり、奴らは自らの身を投げ出して、おまえの腕の冴えをヴァルキュアに伝えているということになるな」  それでもDが無視しっ放しなので、ついに不貞腐れたか、 「ふん」  と押し黙ってしまった。 「……鍛え直しか」  とDが口にしても、 「小賢しい予定調和はよさんか」  と完全にひねくれている。 「さっきのあいつなら勝てる」  このひとことが、Dの罠であった。 「わはは、莫迦《ばか》をぬかせ」  嘲笑とともに左手は甦った。 「あれは“絶対貴族”じゃぞ。いかなおまえでも勝てるかどうかわかるものか。それに、わしの見立てが確かなら——」 「精進は怠りなし、か」 「そうとも。あの妖剣“グレンキャリバー”に、おまえと同等の剣技が加われば、おまえが殺《や》られる。まして、それ以上の力を持つにいたれば、完全にアウトじゃ。さっさと“迷路”を抜けて、ヴァルキュアの隠れ家を捜し出せ。取り返しのつかんことになるぞ」  Dは角を曲がった。  光が黒衣を包んだ。 「夜明け、か」  と左手がまぶしそうに言った。 「さあて、ヴァルキュア捜しじゃ」  Dは四方を見廻した。  広い奇妙な部屋であった。三角形、長方形——様々な形の石板がところ構わず配置されている。 「その必要はなさそうだ」 「何ィ?」  Dは、左前方を見つめていた。  黄金のガウン姿が立っている。その右手で“グレンキャリバー”が不気味な光沢を放っていた。  もはや言葉は要らぬ。  音もなく、Dは滑り出した。  ヴァルキュアが長剣をふりかぶる。 「用心せい——あの構え、一撃で決めるつもりじゃぞ」  声は宙を飛んだ。  動かぬヴァルキュアの頭上から崩れ落ちるような一撃。  空を切った。  ヴァルキュアは動かず、しかし、陽炎のように動いたのだ。  着地と同時に、Dは跳びずさった。 「ふほお」  と左手が呻いた。  いま、ヴァルキュアの一撃がふり下ろされたら、よけられなかったと悟ったのだ。受けてもこちらの剣はへし折られていただろう。 「退《ひ》け——奴め、実力を上げたぞ」  それはかえって、Dの突進に力を与えたようであった。  凄絶な突きから右胴、地ずりで上がるや、左頚部への一刀——そのすべてを身に受け、しかし、ヴァルキュアは幻のようにかわした。  信じられぬ足の移動であり、体さばきであった。  右へ薙いだ一撃もかわされ、Dはたたらを踏んだ。  崩れた体勢を立て直そうとしたとき、眼前にヴァルキュアが迫った。 「よせ!」  それは、次の瞬間、ヴァルキュアに誘われるごとくに出した突きに対する叫びであった。  のび切った剣はDの身体の安定も奪った。  受けもかわしもできぬ弛緩しきったその首すじに、はじめて“グレンキャリバー”は打ち下ろされた。 「お見事でございます」  背後で讃えるキマにも応えず、ヴァルキュアは肩で息をした。ひとつだけのつもりが、そうはさせじと次々と息切れが襲ってくる。こらえたら心臓が爆発しそうだ——しかし、何とかなった。 「あれは、“迷路”の最終地点まで辿り着いたDの実力です。それを動きもせずにただの一撃で仕留められた。お見事と申し上げるしかありません」  ヴァルキュアは“グレンキャリバー”を持ち上げ、鞘に戻した。それだけで、手が抜け落ちそうだ。あの黒衣の若者は、何という敵であることか。一撃で、とキマは言ったが、あとひと打ちでも刃を噛み合わせていれば、首と胴が別々になるのは彼の方だったろう。  しかも—— 「彼奴《きゃつ》はまだ、最後の敵と相対しておらん。実力は未知数だ。それでも、いまのわしに勝てると思うか、キマよ?」 「あなた様次第でございます」 「絶対貴族の身体は、すでに限界に来ておる」  ヴァルキュアは胸に爪を食い込ませた。  彼は咳き込み、その足下に鮮血が飛び散った。強化とはこういうことなのであった。  拳で唇を拭い、ヴァルキュアは身を翻した。 「彼奴の力は、まぎれもなく、あいつ[#「あいつ」に傍点]のものだ。すると、わしとあいつは——ふむ、殊《こと》によったら」  ここで足を止め、真紅の長衣姿を見つめて、 「いざとなれば、おまえの頭を割って脳を調べる。だが、いまは別の手で愉しんでやろう。このヴァルキュアが自らの意志とはいえ、これほどの目に遇ったのだ。少々の嬲りくらいは神祖の罰も当たるまい」  そして、ヴァルキュアが去ると、残されたキマは、ひとり何とも形容しようのない表情で、こうつぶやいたのである。 「それよりも、一から何もかも消してしまった方が、お二人の、いまの御主人とかつての御主人のためでございましょう。この私の生命と引き換えに、出過ぎた真似をお許し下さいませ」  すでに三体の敵を斃していた。  斬り倒されるたびに、より強力な装甲をまとって復活する寄生生物、まやかしの通路をこしらえ、自分の口の中へ導こうとする幻覚獣、Dの体内——DNAへと入り込み、遺伝子レベルから食らい尽くそうと企む思考ヴィールス。——ことごとくDの前に敗北した。 「あれで最後だろう」  と嗄れ声が、飽き飽きした風に言った。こちらもどんな神経か、手のひらに小さな口が浮かんで欠伸まで洩らした。  Dは無言である。これで出口を知っているという前言がなければ、同行する者は不安のあまりおかしくなってしまいそうだ。  どれくらいの時間《とき》が過ぎたか、通路の前方に黄金の柩が横たわっているのが見えた。 「これは面白い——ひょっとして、最後の刺客であるか」  と左手がささやいた。  柩まで三メートルという地点で、Dの歩みが止まった。 「これは——おい」  嗄れ声に、明確な畏怖がこもった。 「あいつ[#「あいつ」に傍点]の気[#「気」に傍点]じゃ。なるほど、これなら“迷路”の最後の関門にふさわしい。しかし、途方もないことを考えたものよ。さすがはダイダロス」 “ミノス王の迷路”を製作したという伝説の工匠である。彼は鳥の羽を使って飛行装置をつくったが、息子のイカロスがそれを用い、太陽に近づきすぎたため、装置をつなぐ蝋が溶けて墜落死したという。  ゆっくりと柩の蓋が開いていった。  開き終わると、黒い影が起き上がる。状況を考えれば不思議でも何でもない。  だが、ただ起き上がるそれだけの動きから吹きつける妖気、鬼気の何たる凄まじさ。 「うおお」  と左手がのっぺらぼうに変わった。 「——Dよ」  いまや柩の外に立つ影が言った。どのような姿をしているのか、何を帯びているのかもわからない。ただの黒い影だ。だが、Dの視覚はともかく、超人間的な全身の感覚は、前方にそびえる山のごとき雰囲気を感知していた。 「——久しく会《お》うておらなんだ。やはり、ふさわしい場所が必要だったかも知れん」  Dは地を蹴った。  ふり下ろした剣は疾風《はやて》とも呼べる凄絶さであったが、影はゆらゆらとDの背後に立っていた。    2  反転せず、Dは左腋の下から突きを放った。  刺されても影は倒れなかった。Dは刀身を戻して向かい合った。 「ここは、おまえの国か?」  と訊いた。 「王の名はヴァルキュアだ」 「彼を虚空に放逐し、しかし、この王国を持たせたと聞く。おまえの刻印があまりに多い王国をな。奴は何者だ?」  影は激しくゆれた。それは精神の動揺を示しているのかも知れなかった。  影の胸もとから青白い手首が現われた。  右手であった。小指には大ぶりの指輪が黄金のかがやきを放っていた。  手の甲にはひとかたまり黒い毛が生えて、貴族的な優美に猛々しい印象を加えていた。  人さし指の第三関節から先が、招くように動いた。  突如、Dは大宇宙のただ中にいた。  残った酸素が限界まで肺を膨張させ、血液が煮えたぎる。 「斬れるか?」  と左手が訊いた。聞こえるはずのない声であった。 「ヴァルキュアは斬れた。地水火風すべてを欠いておる。だが、いまこそチャンスかも知れん。“グレンキャリバー”なしでも、おまえならやれるだろう」  響かぬ声をどう聞いたか、Dは一刀をふりかぶった。  見守るは虚無暗黒の大真空と千光年を隔てる銀河の星々。  Dの両眼が爛とかがやいた。血の色に。  声もなく、Dは右手をふった。  同時に彼の肺は爆発した。  昼の切れ端が、平原の彼方を紅く染めながら沈み切ると、マシューはにんまりと唇を歪めた。  脳に留まるヴァルキュアの想念が、次に取るべき手段を示唆してくれている。  調査隊の面々を配下にしろ、そのための手は打ったはずだ。  それはガードロイドの破壊と調査隊に関する情報の、ブロージュへの隠蔽であった。  コンピュータへは、スーとの平凡な散策がデータとして送り込まれている。  ブロージュが眼を醒ます前に外へ出て、ヴァルキュアの思念でもって彼らを圧倒、膝下に置く。それ以後の指示はない。  車を脱け出すのは簡単だった。コンピュータ万能のメカニズムは、コンピュータの眼さえくらませば、やり放題し放題だ。  すべてはヴァルキュアの想念の賜物に違いない。  ドア・ノブに手をかけるだけで、ロックはたやすく解けた。昼間、スーにブロージュへ外出許可を求めさせたのは、可能性があるなら万事をできるだけ自然に進めたいからだ。  スーの洗脳は、今日も大分進んだ。愚かな妹が、ヴァルキュア大公の臣下となる日も決して遠くはない。  足音を忍ばせて、マシューは調査隊のもとへと走り、最初に侵入した車輛のドアを開けた。  赤く光る眼と、飢えに鳴る牙とが彼を迎えた。 「人間だ」 「人間だ」  もはや獣に近い声が、闇の支配する車内を這った。 「あわてるな」  その声がやや[#「やや」に傍点]あわて気味なのは、自分を餌としか見ない視線の集合に気づいたからである。  男たちは停止した。すでに壁を這い、天井を這って、マシューの頭上に、足下にまで青白い手をのばしていたのである。 「おれはヴァルキュア公のご下知を受けた者だ。おまえたちに話がある」 「どんな……話だ?」  顔を見合わせる魔性たちの中から、ひと声放たれた。 「おまえたちは、今日ただいまから、ヴァルキュア大公様の下僕となれ」 「ほう——そいつは何者だ?」  これは別の声である。マシューは激怒した。 「貴様、夜の者になって大公様の名を知らぬのか? この不埒者。いますぐその愚かさの罰を与えてくれる」 「はっはっは」  声は高らかに笑った。 「はっはっはっは……ほほほほほ」  突如、女の声に変わった——その奇怪さよりも聞き覚えのあることに、マシューは驚愕した。 「お、おまえは!?」 「情《つれ》ないのお、人間と呼ばれる輩は」  もはや、マシューにもわかっていた。  青白い男たちの顔の向うから、ぬうと白いドレスをまとった貴婦人が形を取った。 「わらわの名を忘れたなどと、それこそ愚かな——罰を受ける前にもう一度覚えておくがよい。私はミランダ公爵夫人じゃ」  声もないマシューへ、狭苦しい車内を軽やかに歩み寄りつつ、美しい公爵夫人はこう付け加えた。 「そして、この男たちは、ひとり残らず私の下僕よ。ふふ、引き抜きは許さぬぞ」  白い手がのびてきた。  後ろ向きに戸口から跳び下りることができたのは、ヴァルキュアの想念によるものであったかも知れない。  足がもつれてたたらを踏み、五、六歩下がって、太い幹にぶつかって止まった。車輛から白い女貴族と男たちが下りてきた。闇の中にきらめく赤光。 「何処へ行く。わたしの部下をスカウトしにきたのではないのか?」  ミランダの呼びかけに、 「それは面白い話だな」  獅子を思わせる声が、マシューの頭上から降ってきた。  幹の放つ声——ブロージュ伯爵に似ている。  跳び離れようとした襟首を掴まれ、ぐいと天高く持ち上げられた視界に、パノラマの荒野が開けた。 「ひとつだけ言っておく」  片手でマシューを吊り上げたまま、ブロージュ伯爵は夜を圧する声で告げた。 「おまえの行動はすべてお見通しじゃ。ヴァルキュアの脳を収めてあることもわかっておる。それを野放しにしておいたのは、何を企んでおるか馬脚を現わさせるためだ。もう少し泳がせておきたかったが、事ここに到ってはやむを得ん。少し手荒い方法を使っても、ヴァルキュア以外の眼で物を見られるようにしてやろう。ミランダよ、引き抜きの件はこらえてくれ」 「よろしいですとも、私とあなたの仲」  こう言ってミランダは、こりゃ裏に何かあるな、としか思えない笑顔を見せた。 「その代わり、その坊やの矯正は、私にまかせていただきましょうか」  一瞬、驚きと不快の翳が、巨大な顔をかすめたが、たちまち凄まじい笑顔に変わって、 「少々手荒すぎる気もするが、良薬は口に苦しとか。——まかせよう」 「放せ」  とマシューが叫んだ。 「放せ、放してくれ。おれは何も企んでなどいない」 「往生際の悪いこと。いっそこのまま我らの粗野な一員に加えたらどうじゃ。私は前からそう言うておるが」 「その方がましだというくらいの目に遇わせてやれ。それでよかろう」 「承知いたしました」  口もとに繊手をあてがい、ミランダは高らかに笑った。  ブロージュ伯爵が虚空に眼を据えたのは、そのときだった。  その耳の奥に、女の声が鳴り響いたのだ。  ——スーが逃亡いたしました。 「何イ!?」  闇をふるわせる怒号に、マシューはもちろん、ミランダとその下僕たちまでが表情を変えた。 「ど、どうやって逃げた?」 「——申し訳ありません。外部からの超思念が、私のネットワークに電子幻覚を挿入いたしました。部屋にいるとしか思えませんでした。お許し下さいませ」 「ええい、許さん!」  巨人は地面を蹴った。土がひと山めくれ、ミランダの足下に落ちた。  つづいて、マシューの身体が。 「まかせるぞ、ミランダ。真人間[#「真人間」に傍点]になれるよう手厳しくしごいてくれ。わしはあの娘を捜す」  どこまでもつづく鋼の平原を、スーは闇雲に突っ走っていた。平原とはいえ、走るとはいえ、娘の足だ。かせげる距離も知れている。それ以前に疲れ果てる。  スーは平然と走っていた。  頭の中に別の人格が入り、それが肉体の代謝機能にも変化を及ぼしているようだ。  どこまでも走れる——スーは喜びに燃えた。  ブロージュ伯の車を逃げ出した理由はひとつ。マシューが捕われたからだ。必然的にスーへの洗脳も看破される。だから、いざとなったら逃げろとマシューに指示されていた。スーの洗脳レベルは、一日で強力の域に達していたのである。  逃げ切る自信はあった。  その証拠に、ほら、前方からおびただしい青白い光が、煙のごとく濛々《もうもう》とやってくるではないか。  だが、背後からは自走車のエンジン音が。こちらはずっと近い。  あきらめずに足を動かしつづけ、このとき、少女はあり得ない、あってはならぬ祈りを口にした。 「お助け下さい——ヴァルキュア様」  天空から一条の光が、自走車に落雷したのは、その刹那であった。  闇夜に生じた真昼に両眼を灼かれ、何とか視力を取り戻したときも、停止した自走車は青白い電磁波の檻に絡め取られていた。  安堵を力に走るかたわらを、光点の主が——黄色い単眼を備えた円筒が、無数の触手をゆらめかせつつ通りすぎていった。  彼らと自走車の間に何が起こったか、見物している余裕はなく、スーは夢中で走ろうとし、不意にその身体が空中に浮き上がったのである。  円筒のひとつが三本の触手を使って彼女を巻き上げ、猛スピードで平原の奥へと連れ去ろうとしているのだ。  スーは微笑した。  こんな事態を、誰が予測し得ただろうか。Dが守り、ブロージュが救い、ミランダが庇った娘が、いま、歓びとともに自ら死の罠へ跳び込もうとしている。  滑らかな飛翔に怯えも忘れ、スーは眠りに落ちようとした。  激しい痙攣が襲ったのは、そのときだ。  開いた眼を、ぐんぐん迫ってくる大地が埋めた。  急角度で降下に移った円筒は、間一髪で制御を取り戻し、ゆるやかに滑走して鋼の大地に倒れ込んだ。  最後まで任務に忠実たろうとしたらしく、スーは停止後に地上へ置かれた。  自然に開いた触手の間から脱け出し、爆発を警戒しつつ離れながら、スーは横倒しの円筒と、その背後にそびえる奇怪な樹木を見つめた。  円筒と樹木の間に女がひとり立っていた。その唇がわずかに尖り、かすかなハミングは夜を渡る風のようにスーの耳に忍び入った。 「あなたは——」 「歌姫カラス」  と妖しい歌い手は名乗った。 「どうして——これ[#「これ」に傍点]を?」  円筒のことである。スーにしてみれば、どちらもヴァルキュアの意を酌んで、自分を彼の城へ運び込まんとする朋輩《ほうばい》ではないのか。 「あなた方を、大公様のもとへ連れていくのは私の仕事。アンドロイド風情の出る幕ではありません」  いまとなっては、カラスもスーの仲間といえる。それなのに、妖々と近づいてくる美女は、まぎれもない真の戦慄でスーを呪縛しようとしていた。    3  あと一歩というところで足を止め、カラスはわずかに柳眉をひそめて娘を凝視した。 「笑っているわね。何がおかしい? いいえ、愉しい?」 「もう大丈夫」  とスーは答えた。 「もう、あなた方に怯える必要がなくなったんです。あたし、歓んで大公様のもとへ参ります」  スーの顔を異様な光が彩った。それはカラスの瞳に映るスーの顔であり、カラスの瞳が放つ光であった。  彼女は全身の力を抜いて、スーに微笑みかけた。 「どういう心境の変化かしら?」 「兄に——マシューに教わったの。大公様の思想とその世界の素晴らしさについて。とてもよく理解できました」  スーの声も口調も滑らかであった。友に話すがごとく。  歌姫は眼を伏せ、静かにこう返した。 「そうなの。それはよかった。ねえ、私の話も聞いてくれる?」 「ええ——でも、こんなところで?」 「そう。ここで」 「いいわ、話して下さい」  小首を傾げるようにして、カラスは話しはじめた。彼方では、アンドロイドとブロージュ伯爵の死闘が繰り広げられているはずであった。 「私の母は五千年前、辺境を巡る歌劇団のソプラノ歌手だったのよ」  辺境に生きる人々にとって、娯楽と呼べるものは極めて乏しい。壮麗な夜会や舞踏会は貴族のものであり、人々は四季折々の祭りや、村々を巡り来る巡回劇団に、日々の憂鬱や鬱屈を晴らすしかないのだった。  その名もない歌劇団の歌姫のひとりがカラスの母であり、この地方の僻村を訪れた際、ヴァルキュアの眼に止まってその館へと、なかば強制的に招き入れられたのである。このとき、カラスはわずか三歳にして、劇団最高のソプラノ歌手であり、人気者であった。 「その日から、母と私は大公様の館に留め置かれたの。他の劇団員はみな大金を与えられて帰された——実は皆殺しにされたと知ったのは、ずっと後のことだったわ。大公様は私たち母娘《おやこ》の血より、歌声を好んだの。夜ごと大公様は私と母の歌声に聴き惚れたものよ。月の白い庭で、三人以外誰もいない大ホールで、大公様の寝室で。でも、大公様には何程でもない時間が、私たちには明確な敵だった。母の顔には皺が増え、歌声は張りもかがやきも失っていった。そうしたら、残るのはかつての劇団員たちと同じ運命のみ。母は日に日にやつれ、衰えていった。大公様の精神《こころ》の変容が、誰よりもはっきりと読み取れたからでしょう。大公様に愛でられていたとき、私たちは天上界に遊ぶようだった。その追憶と待ち受ける運命との落差に、母は耐え切れなかったのよ。そして、大公様の想いをつなぎ止めるため、母はある提案をしたわ」  ヴァルキュアは、色香と声質の落ちていく母を見限る代わりに、珠玉《たま》のような美女に育ちつつあったカラスに執着を示した。  はじめてヴァルキュアの館に入り、彼のためにだけ、生涯歌いつづけると誓った晩に、母は大公とある契約を交わした。  カラスに貴族の口づけを決して与えぬことを。  そのときの母は、何と母親の気概と娘への愛に満ちていたことだろう。  二〇年を閲《けみ》して、 「私と娘をお側にお置き下さい。私が死ぬまで、そして、娘は永久に」  と母は申し出た。 「その晩、私は寝室に忍んできた大公様の口づけを受けたのよ」  だが、カラスを待っていたのは、奇怪な現象であった。彼女は血に飢えもせず、陽光も厭わなかった。多くの“犠牲者”たちのように発狂さえしなかったのである。  絶望の中で訝しむ彼女へ、 「わしにはそれができるのだ。わしだけにな。おまえは我らの下僕とならずして、それについての人間の記憶が失われてしまうほど長い年月を生きられる。だが、永劫というわけにはいかんし、また、忌々しい機械の助けも借りなくてはならん。その代わり、汝の歌声は人間の喉が出す以上の神秘な力を備えるであろう」  やがて母は死に、カラスによって手厚く葬られた。  それからのカラスには、前と同じ優雅で平穏で途方もなく孤独な日々がつづいたのである。  それが断ち切られたのは、一〇〇年ほど経って、大公が“神祖”との戦いを決意した瞬間であった。  それまで、他の貴族との死闘の間も、太陽系を股にかけるエイリアンとの戦いの日々にも、大公のかたわらで、カラスの歌声が響かぬときはなかった。  だが、今度の相手は、塵ほどの余裕も大公に許さなかった。  臣下たちは次々に討ち死にし、刺客の手にかかった。  これに対抗すべく、大公は暗殺を旨とする親衛隊を組織し、七人の強者を選んだ。カラスがそれに加えられたのは、その歌声の持つ力によってであった。 「私の歌がどれほどの貴族と人間たちに死を与えたかはわからない。愉しい日々ではなかったのよ」  いつの間にか、カラスはスーの背後に廻っていた。  両肩を押さえられ、氷のような息を耳たぶと耳孔に吹きかけられても、スーは怯えなかった。もう仲間なのだ。  吐息が歌に変わった刹那、凄まじい激痛が全身を駆け巡った。  痛みよ巡れ、とカラスは歌ったのだ。 「やめて——どうして?」  逃れようとするスーを、魔性の力で押さえつけ、カラスは尋常な言葉でささやいた。 「訊きたいことがあるわ。私が大公様をどう思っているか」 「そんな……あなたは、あの方を愛して——」 「憎んでいるのよ」  とカラスは静かに言った。 「私を殺し屋に仕立てた男、慈悲深い母に娘を売らせた男、私の愛についに気がつかなかった男、気づいても、想いの一片も向けなかったであろう男——憎むより他に何ができて?」  氷のような歌姫の胸中にくすぶりつづけていた情念の発露は、燎原の火のごとくスーを圧倒した。 「あなたも同じだと思っていた」  とカラスは、おびえを復活させた娘の耳もとでささやいた。 「あなたも、昔の——五千年前の私たちと同じだと。貴族に脅え、逃げ廻るしかない人間なのだ、と。逃げながら、誰よりも貴族を憎んでいるに違いない、と」 「……それは……昔のことよ」  ようよう放ったスーの返答を、カラスは嘲笑った。 「昔とはいつ? 五千年の昔のこと? あなたは一昨日まで貴族の敵だった。それをいともたやすく、兄の説得だけで大公様を愛するなんて——もはや許せない。大公様にどのような罰を賜ろうと、おまえはいまここで私が手にかける。お聴き、私の歌を」  わななく耳にかぶりつくようにして、死の言葉を旋律に乗せた。その寸前、カラスは満面を恐怖に引きつらせてふり向いた。  Dが立っていた。  折から吹きつのりはじめた夜風にコートの裾は華麗に翻り、敵を見据える眼差しと美貌に、月さえも蒼ざめる。  そして彼は、妖々とカラスとスーめがけて歩き出した。  あらかた片づけた。  数億ボルトの人工雷は絶え間なく自走車を叩き、アンドロイドどものレーザー砲は容赦なくブロージュ及びもと[#「もと」に傍点]調査隊員たちの胸もとを貫いたが、彼らはびくともせずに、自走車内の武器と人間離れした怪力とで迎え討ち、瞬く間にメカニズムの集積どもを壊滅状態に陥れた。 「ぐはは、ヴァルキュアの蛸どもめが。ブロージュ伯の自走車をどうこうできると思ったか」  と哄笑する伯爵のかたわらで、 「蛸?——品のない」  とミランダ公爵夫人が吐き捨てた。今回、ただの一度も外へ出て戦わなかった唯一の美女は、いま車の外で、累々たるアンドロイドの残骸を見渡していた。 「昔はこのくらいの人数ならば、平原全体の空気が血臭を孕んだものですが、いま漂うのは溶けたICの匂いばかり。嘆かわしい時代だこと」 「生き残りはおらぬな。では、スーを捜しに出かける。車へ戻れ」  とブロージュが指示した相手は牙を剥いたもと調査員たちだが、次の瞬間、何とも不可思議な現象が発生したのである。  何もない空間から、棍棒を握った巨腕が突き出るや、それに気がつく暇があればこそ、ぶんと巻き起こった突風に、打撃音と朱が入り混じって、半数が頭を砕かれ地に伏した。 「ほう、誰だ?」  と伯爵は愉しげに訊いた。  五体無事の隊員が後退した後に、朱い霧が宙に舞い、そして、ひょいと巨人がひとり、空中から出現した。その手に握った血まみれの棍棒と、皮袋の衣裳をひと目見て、 「スーラとはおまえだな」  とブロージュが念を押す。  巨人は巨人にうなずいてみせた。 「仰せの……とおり……だ」 「ヴァルキュアの七人のひとりなら、いま、おまえを斃せば残りはカラスという女ひとり。雑魚はいま片づけてくれる」  ずん、と長槍をしならせ、ブロージュ伯は歩きはじめた。 「ほれ」  無造作に長槍を突き出す。誰もかわせず、受けても跳ね返される——そのくせ、ゆるやかとしか見えない突きであった。  棍棒で槍を跳ねとばし、スーラは跳躍した。  一メートルほどで、その身体は斜め右後方へ向きを変え、手の棍棒に引っ張られて五メートルも向うの大地へ激突した。  ブロージュの槍を跳ねとばしたのではなく、とばされたのだと、スーラが気づいたかどうか。  だが、彼は全身の発条《ばね》を利かせて起き上がるや、ブロージュめがけて棍棒を放った。  あまりにも単純で原始的な攻撃を嘲笑いつつ跳ねとばし、ブロージュ伯は第二撃を送ろうと長槍を構えた。  槍はなかった。  握りしめていた五指が、すべて骨折していることを知らず、伯爵は左後方へ眼をやった。  二〇メートルも向うの地面に斜めに突き刺さったそれ[#「それ」に傍点]へ、伯爵は奇妙な眼差しを送った。信じられないのである。この世に怪力で自分を捩じ伏せようと試み、成功した存在がいようとは。  あわてず槍のもとへと歩み寄り、一気に引き抜くと、その穂先をあらためてスーラに向けた。こちらはもう体勢を整えている。  伯爵もまた。  鋼の大地を、このとき、電磁波ならぬ殺気が浮動しはじめた。  カラスの頭頂へ、Dははっしと一刀を打ち込んだ。  伯爵の長槍は、横殴りにスーラの首すじへと走った。  奇妙な実験室のパネルの前で、ヴァルキュアは、ふと宙を仰いだ。  その刹那、平原すべてに、灼熱と高圧の死光が叩きつけられた。 『都』の技官が放った小惑星ミサイルが、前触れもなく地表に激突したのだった。 [#改ページ] 第三章 新たなる死影    1  直径一〇〇メートルの小惑星が一億キロの彼方から地表に激突したらどうなるか。  言うまでもなく、衝撃で地上建造物は例外なく倒壊し、噴き上がる土砂によって太陽の光は遮られ、長い冬が地表を覆うだろう。山脈も消滅し、地層にも変化が生じて、大陸自体の形も位置も変貌を余儀なくされる。  もしも、人間の手でそれを招いたならば、惑星激突以後の運命は、人間が選んだ壮絶な自死に外ならない。  この場合、結果に対する人間の無知が発射を選択したというより、やはり、“絶対貴族”への怖れが一線を越えさせたというべきであろう。自らの廃滅と引き換えにその死を願うほど、“絶対貴族”は怖るべき存在なのであった。  小惑星ミサイル自体は、貴族同士の戦いのための武器ではなく、対エイリアン前線用に開発されたものである。  その数は数十万個に達し、中には冥王星や木星をミサイルに変える計画もあったと伝えられる。  ヴァルキュアは、これらの兵器が浮遊する小惑星帯の周囲の空間性状を変質させ、一種の瞬間移動帯《テレポート・ゾーン》を設けた。これにより、銀河の果ての星までも瞬時に到達し、恐るべき破壊を欲しいままにする。  今回の小惑星が一日で大気圏外に出現し、付属する制御装置と量子エンジンでもって目標への進入角度を決定——わずか三〇秒でヴァルキュアの王国へ激突し得たのも、この技術の成果だ。  一日を要したのは、瞬間移動帯の制御コンピュータに長年月の間に異常が生じていたためであった。  質量五億トンの小惑星は秒速五〇〇メートル弱で鋼の平原を直撃した。  だが——  月光の下に黒鉄《くろがね》の荒野は津々《しんしん》と広がり、破壊の痕跡は一片だに見られない。小惑星の破片すら存在しない平原を、風が蕭々《しょうしょう》と渡っていくばかりだ。 「小惑星AX2894006は、地表接触千分の一秒後に消滅いたしました」  ヴァルキュアの耳に、空中からキマの声が届いた。 「近接触による大気の異常や衝撃も九九パーセントまでは吸収されましたが、多少の影響は免れなかったと思われます」 「『都』の新政府か?」  とヴァルキュアは面白くもなさそうに訊いた。 「間違いございません」 「お返しは、そのうち一千万人を焼き殺すことにする」 「承知いたしました」  キマのこの返事を最後に、ヴァルキュアは、奇怪な作業に戻った。  この王国に残る設備と施設のうちのあるものを統合し、分離し、より危険で強力なものを造り上げる。  D抹殺のために。  あの美しい刺客が小惑星ごときの直撃で滅ぼされるなどと、彼はてんから思っていなかった。  突如、荒れ狂った暴風の猛威は、Dを数キロも吹きとばし、しかる後、地表へと叩きつけた。  すぐに立ち上がり、なおも吹きつける風の彼方へ眼をやると、 「北東へ三キロじゃな」  と嗄れ声が告げた。 「スーもカラスも、みいんな吹きとんでしまいおった。恐らくはブロージュの車もな。さて、どうする?」  問いが終わる前に、Dは歩き出している。正確に、もと来た方角へ。  その足取りが急に乱れた。  風に踊る布人形みたいに、美しいハンターは黒い大地に倒れ伏した。 「成層圏から戻るのに、体力を使い果たしたか。いかんな、これは」  嗄れ声には焦りが含まれていた。 「とりあえず、手に入るのは風のみか。えーい、せめて土なりとあれば」  手のひらに小さな口が開き、ごおと風を吸い込みはじめた。  一分——二分。 「いかん。心臓がまるで氷じゃ。これでは、破壊された肺の修理も不可能——気長にやれば風だけでもいいが、それでは丸一日かかる。はて、どうしたものか」  風が黒衣をはためかせた。 「おや?」  と小さな声が上がった。  右手——東南の方角から、数個の光点が近づいてくる。 「偵察メカか——ちと危《やば》いな」  そして、さらに凄まじい吸引音が噴き上がった。  それがかえって、居所を明らかにしたかも知れない。  真っすぐこちらへ向かってくる光点の速度は、やや速まったようだ。  冷たいものが額に当てられた。  スーは眼を開いた。  見覚えのある顔がのぞき込んでいる。 「動くな」 「あなた——スーラ!?」  驚きのあまり身を固くし、それが激痛を呼んで、スーは悲鳴を——上げられなかった。それさえも筋肉を使う。痛い。 「ずっと……追いかけていた……カラスがやるというので……おれは見物……だ」 「どうして、二人して……」  かかって来ないのか、と訊くつもりだった。 「ひとりには……ひとりで相手をすべきだ……少なくとも、おれとカラスは……そうしてきたし、そうしたい」 「私、大公様のもとへ行くつもりよ」 「本気か?」 「ええ。やっと、わかったの。自分の行くべきところが」  スーの眼はかがやいた。興奮のあまり上体を動かそうとして、悲鳴を上げた。 「全身打撲だ。内出血していないとも限らない。しばらく、動くな」 「早く、連れて行って、大公様のところへ」 「少し待て」  スーラはこう言って少女を見下ろした。  あの奇態な黒い木の下である。 「どうしたの?」  ふと、スーは訊いた。 「何が、だ?」 「なぜ、そんな哀しそうな眼で見るの?」 「いつも、こうだ」 「嘘よ。前は違っていた」 「違っていた、か」  巨人はうすく笑った。  優しい眼をしている、とスーは思った。 「殺し屋には見えない」  と口をついたのは、そのせいであった。 「もとは違う。おれも、カラスも、な」 「あの女性《ひと》のことは聞いたわ。あなたは——」  巨人は身体を振るようにして、身体の位置を移した。立っているのかと思ったら、最初から胡座をかいた巨体だったのだ。 「カラスが身の上話をしたか。なら、おれもよかろう。つまらん話を聞いてみるつもりはあるか?」 「ええ」  巨人はスーの顔の上に、大きな右手を持ってきた。  親指と人さし指で何かつまんでいる。 「口を開けろ」 「何よ?」  不吉な予感に襲われて、スーは眉を寄せた。 「安心しろ、薬だ。内出血していれば、これで吸い取れる。おれはおまえに危害を加えるわけにはいかん。わかるだろう」  そのとおりだった。この刺客はスーと一緒にいながら、声ひとつ荒げたことはなかったのだ。  スーは口を開いた。  何か軟らかい塊が喉へ——タイミングよく呑み込んだ。それはいきなり長い紐のような感触を食道に与えて、自ら滑り下りていった。 「やだ——何よ!?」  下腹を押さえようとしたが、怖くてできなかった。  それは臍の下あたりまで下がって、急に感じられなくなった。 「おれの暮らしていた山なら、どこにでもいる吸血虫だ」 「———」 「他の生物の口腔《こうこう》から入り込んで血を吸うが、人間だけは内出血部のみを吸ってくれる。役に立つ虫だ」 「内出血してなかったら?」 「心配ない。トイレへ行けばいい」  スーは宙を仰いで我が身を呪った。  いきなり、頭の芯がずきん、ときた。視界が闇に閉ざされ、すぐに戻った。 「どうだ?」  とスーラが訊いたので、頭を指さすと彼はうなずいた。 「脳内出血だ。運がよかったな。潜り込んで吸い取ってくれたぞ」 「潜り込んで?」 「その辺は、虫の企業秘密だ。脳を溶かして通路をつくった後で、戻るとき再生するらしい」  どうやってよ、と訊きたかったが、スーはあきらめた。巨人はわからないと言ったのだ。 「その調子では、吸い終えるまで少しかかる。おれの話はこうだ」  スーラは話し出した。遠くで稲妻が閃いた。 「昔、人間はおれのことを“山人《やまびと》”と呼んでいた」  スーは記憶を辿って、 「聞いたことがあるわ。ずいぶん、昔よね」  と言った。 「ざっと五千年前だ」  スーラはそのとき、父親と一緒に緑濃い山の奥で暮らしていた。母は早く亡くなり、苛酷な自然に耐え切れなかった兄弟もみな死んだ。 「生活といっても、山竜やイワイヌ、死熊等を獲って腹を満たし、その皮を剥いでは、年に一度くらい、狩人や木樵《きこり》のもとへ届け、山刀や火薬銃や弾丸と交換する——それの繰り返しだった。たまに、道に迷った旅人を助けたり、ヘビトラと戦って動けなくなった猟師を麓まで送ってやることもあった。その頃は、人間との生活もうまくいっていたんだ」  ある日——スーラが五歳の冬、重い傷を負った貴族が、二人の住む洞窟へと迷い込んできた。匿ってくれという彼を追い出す理由もなく、ネットリグサや吸血虫を使って治療を行い、一週間ほどで完治した。傷は刺し傷であった。そこへ、人間の兵士の一団がやって来たのである。貴族はその場で心臓に杭を打たれ、彼を救ったという理由で父親とスーラにも銃弾が射ち込まれた。 「父は死んだが、おれは上衣のポケットに入れておいた煙草ケースに弾丸が食い止められて助かった。治療の礼にと、貴族がくれた品だ。おれが何より驚いたのは、おれと父を射ちまくった人間の中に、よく農作業を手伝ってやった下の村の者や、傷ついて動けないところを家まで運んでやった猟師がいたことだ」  急所を外れたとはいえ、片目を失い、他にも十発以上、弾丸やリベットが射ち込まれていた。動けぬうちに火も消えて、極寒の中でスーラは死を覚悟した。  夢の中にその人物が現われ、おまえが救い、人間の手にかかったのは我が友だ。生命をやろう。わしの下僕となって人間どもを殺しまくれ——と話しかけてきたとき、彼は昏睡状態で見る夢だと思った。 「それじゃあ、あなたは!?」  スーは驚きの眼を、腰を下ろした巨漢に向けた。 「——あなたは、まだ子供のときの姿なの?」  巨人はうなずいた。 「“山人”の年の取り方は人間と同じと聞いたことがあるわ。何てこと——」 「姿は子供だけれど。おれはたくさんのものを見すぎた」  とスーラは疲れたように言った。 「たくさんの生と死を、な。正直、山へ帰りたいと思わぬこともない」 「——でも、大公様のお側にいられるのなら——」  言いかけてスーは沈黙した。また、あの眼だった。悼ましげな、哀しげな。それがスーを見つめている。  自分がひどく間違っているような気がした。それを知っているのは、眼の前の巨人だけだった。 「スーラ」  と呼びかけたとき、スーは眼の隅にこちらへ向かって漂ってくる白い霧を捉えた。  ——まさか。  いや、おかしくはない。夜は彼女の世界なのだ。  こう認識する間に、霧は渦巻き、ゆらぎ、ひとりの女の形を描き出していた。  スーラがふり向いた。  そこから三メートルと離れぬ場所で、 「昔ながらの登場の仕方じゃ。文句があるか?」  とミランダ公爵夫人は、朱唇《しゅしん》から白い牙を剥いた。  何ということか——スーに差しのべられた救助の手だが、それはいまの彼女にとって、最も忌むべき妖魔の魔手であった。  光点は四人の美女の眼であった。  いずれも、絢爛といっていいドレスに身を包み、天女のごとき優美な歩みでDを取り囲んだ。  屍蝋《しろう》のような顔に、みるみる紅が浮く。 「なんと美しい……」 「こんな男がこの世にいようとは」 「五千年ぶりに城を出た甲斐があった」 「思う存分、吸い尽くしてくれよう」  四人は顔を見合わせた。どれも黒髪絶世の美女である。それが、Dの前では醜女にしか見えぬ。 「誰から入る?」 「もちろん、最初に造られたお方から」 「ならば、あたくし」  と、ひとりが言った。 「ならば、あたくし」  と、もうひとりが言い、 「ならば、あたくし」  と三人目と四人目が唱和した。 「それでは——」 「——一緒に」  四つの影が四方からDにすがりついた。  左手は見逃すのか。  四人の美女の身体は、全く同時に、妖々とDの体内に吸収されていったのである。    2  スーラが立ち上がった。穏やかな印象しかないその巨体から放たれる鬼気に、スーは制止の声も出ない。  何を言っても無駄だ、とわかっている。  相手はミランダ公爵夫人——敵に対する貴族の残忍性の、最も正統なる後継者だ。 「“ヴァルキュアの七人”——最後のひとりか」  ミランダは舌舐めずりをした。 「もはや、何を言う必要もあるまい。ヴァルキュア以上の貴族がいることを知って死ね」  その顔面を、ごお、と風を切ってスーラの棍棒が襲った。  影が躍った。  反射的にスーは頭上をふり仰いだ。  自身が発光するがごとき月輪のかがやきに、さらに白く舞う屍衣の美女。陶然とそれを見つめるスーは同族の死者のごとくに横たわり、その眼差しでの交情を断ち切ろうと、スーラは棍棒をふり廻した。  怒れる季節の送る風に舞う花びらのごとく、ミランダ公爵夫人は宙に躍り、不意に巨人の肩の上に立った。  スーラが手を廻し、身をねじっても彼女は落ちなかった。  そればかりか、前方に両手をかざすや、スーラの髪は生きもののように拳に吸い込まれて、ミランダは手綱のごとくそれをゆるめ、引き絞った。  あたかも暴れ馬を操る名女騎手——だが、その騎手の操縦ぶりがいかに激烈かは、髪が引かれるたびに右へ左へと操られることを余儀なくされながら、スーラの顔が苦痛に歪み抜いていることでわかる。  しかも、空気に墨汁のようなものが煙り、スーの顔にも降りかかる。血だ。髪のつけ根から血が噴き出しているのだ。 “ヴァルキュアの七人”と呼ばれる刺客の中の刺客も、主人と同じ貴族相手には為す術もないのか、あの奇怪な消失の技を使う余裕もなく、次の瞬間、公爵夫人の白い手は、巨人の髪をふた掴み、根もとから毟り取っていた。  黒血に煙る頭を押さえ、絶叫にまみれて巨人はのたうった。  背が地につけば肩に、肩が触れれば胴に、軽やかに移動しつつ、ミランダ公爵夫人の口もとから、つうとひとすじ光る糸が垂れた。  涎《よだれ》だ。この典雅な美女は飢え切っているのだった。  その右手がスーラの首すじを打つや、彼は大きく身をのけぞらせて動かなくなった。  かつてDさえ退けた男に、何たる貴族の実力か。  赤光を放つ両眼、ぎちぎちといやらしくきしむ牙、爪さえも獣の忌まわしさでせり出して、妖女は巨人の残る髪の毛を掴んで、ぐいと顔をのけぞらせた。  その首すじに確かに青い血の管が見えるに違いない。  ぐるると人外の歓喜を咆哮に乗せ、美女は巨人の首すじに食らいついた。  その刹那、天も裂けんばかりの絶叫が噴き上がったのである。  それは長く長く尾を引きつつ宙を飛んで、五メートルも向うに着地した。 「お、おまえは——いつ、それ[#「それ」に傍点]を!?」  かっと剥き出した眼は、狂気と怖れと絶望とに血走っている。 「生かしてはおけぬ——たとえ、血盟の約定ありとても、それ[#「それ」に傍点]を知ったものを生かしてはおかぬ。娘よ、ただいまこの瞬間から、おまえの真の敵はこの私——公爵夫人ミランダじゃ!」  発狂してしまいそうな呪いの叫びを脳裡に反響させながら、両手で顔を覆ったまま、スーは動けなかった。  不意に声が遠ざかり、夫人の輪郭がぼやけたと思うと、スーは西へと遠ざかる白い霧を見た。  掲げた手の絡みを解くのに、ずいぶんと時間がかかった。恐怖のあまり、顔の前でかざした両手の形が十文字だったことに、スーは無論、気づいてはいない。  二人の間に割って入ったから、当然背後に庇う形になったスーラに近づき、 「しっかりして」  と声をかけたとき、ようやく激しく身体が震え出した。  何処からともなく、すすり泣くような音が一帯に溢れはじめた。年頃の娘なら頬を染めて耳を押さえたくなるような、それでいて、わずかに手をゆるめて聞かずにはいられないような——恍惚の喘ぎだ。  見えない炎のように熱く絡み合うそれは、すぐ聞き違えようもない女たちの喘ぎと化した。 「素晴らしい……いや、凄まじい……この私が溶けてしまいそうなほどに」 「ああ……狂う……狂う……血などはいらん……私と一緒に……果てて」 「誰が……一体、誰が……このような男を造ったのじゃ……」 「助けて……誰か助けて……もう……駄目……この男に殺されるなら……悔いは……ない……」  声はすべて、横たわるDの体内から聞こえた。この声の表わす恍惚と淫らさの中で死にたいと、誰もが望むだろう。  あたかも、パンドラの函から脱け出した想いのごとく、白い形が空中に浮き上がった。四つ。うち三つは何やら白い霊体のような形を為さぬ塊に黒髪らしきものをまとわりつかせて地に落ち、ふたたび動かなかった。  ひとつ残った。いや、その顔も身体も半ばとろけた黒髪の女がひとり、吐き気を催す色合いの粘液の糸を引きながら、必死にDへとにじり寄ろうとする。 「無惨じゃ……五千年前まで……人間どもの血と精を……好きなだけ呑み尽くし、妖よ魔よと恐れられた我ら“吸精女団”が……意識もなく眠れる生ける屍ごときに……このような……」  ぶつぶつとつぶやく声は、当人の方が死者のそれだ。腰から下は完全に溶け崩れ、それでもDにすがりつこうとする執念は、骨の髄まで冒す怨みのもたらすものか。否、声の合間にぱくぱくと開いては閉じる口は、その体内で覚えたものか、途切れなくDよ、Dよと呼んでいる。  左の眼球はすでに糸を引いて落ち、鼻は崩れ、唇も裂けて、しかし、そこに残る表情は、愛しい男のもとへと向かう女の歓喜哀切のそれだ。文字どおり身も精神《こころ》も溶かして、この女はDを慕い抜いたのだった。 「三人の仲間は……死んだ……私だけが残った……おまえは私のもの……せめて……私と……魔天へ……」  Dの胸もとまで辿り着くと、女は顔を伏せて呼吸《いき》を整えた。  顔が上がった。口内の歯すべてが牙に変わった顔が。  それがDの喉笛へ躍りかかろうとした刹那、白光が斜めに女の喉もとを走った。  女の残る眼は、首ごと舞い上がった高みから、迸る鮮血を見た。それは首の斬り口から噴き出る血であった。小刀を地面に置いたDの左手のひらが、それを呑み込んでいる。 「水と風は揃った」  血まみれの手のひらに小さな口が開き、さらに小さな眼が開いた。 「地と火が足りぬ。だが、やってみよう」  生と死の時刻《とき》が過ぎた。  月光が夜風を光らせる鋼の平原に、ひとときの静寂がのびをし、男と女の想いがささやかな炎《ほむら》を燃え立たせて消えた。  何が残る。  新たな生と死の劇《ドラマ》が生まれるまで——月光と、風ばかり。    3 「ヴァルキュア様」  キマの声だと知って、“絶対貴族”は、不格好な椅子の上から首をひねり、すぐに前方へ戻した。 「仕上げにかかるところだ。邪魔は許さんぞ」  地鳴りのような声に、 「偵察の吸精女団四名——死亡したと思われます」  とキマは伝えた。他の者の連絡はすべて三次元立像だが、彼だけは直接、ヴァルキュアに伝言する。 「わかっている。ここは、わしの国だ。——Dの仕業であろう」 「仰せのとおりかと」 「大宇宙から、わしと同じ手を使って戻って来おったか。ますます気になる男だ」 「あの方ならば、それくらいのことは」 「そうとも」  ヴァルキュアはふり向いた。 「かつて、おまえが仕えていたほどの男だ。奴が“迷路”を脱してから、わしは、奴の能力がすべて発揮されたとみて、フルモデルをつくり上げた。そして、戦った」 「それは——どうなりました?」  キマも興味をそそられたらしい。我知らず、上体を乗り出した。 「五分五分だ。“グレンキャリバー”は彼奴の胸を刺し、奴の太刀はわしの心臓を貫いた。あの感触——いいものではないな。現実に戦っても、結果は同じだろう。ならば、わしの負けだ」 「………」 「だが、わしは認めぬぞ。“絶対貴族”は常勝を運命づけられておる。キマよ——ひとつ、おまえだけに教えてやろう」 「何を——でございますか?」 「夢の中の男が、わしに申したことだ。——絶対の危機に遭遇したときに限って、あるものの使用を許す。それは、次元幽閉塔の奥に隠れており、おまえが真に望んだときにのみ、解放のキイが与えられるだろう、と」 「それは一体? いえ、まず、その夢の男とは?」 「わからぬ、何もな。男としかわからぬ。その顔も姿も見たような気がするが、何ひとつ覚えておらんのだ。いや、そもそもが、夢の夢だったのかも知れん。ただひとつ……」 「ひとつ」  キマは自らの言葉を胸に落とした。 「その男の背後には荒野が広がっておった。このわしが、あそこにだけは踏み込みたくないと、夢の中で心底思ったほどの荒涼たる平原がな。奴はそこからやって来おったのだ」  ヴァルキュアは右手を上げた。黄金のカードが、それをつまんだ指の間でゆれていた。 「それが——キイ[#「キイ」に傍点]?」 「ついさっき、気がつくと膝の上に乗っていた。どこから来たのか、誰が持って来たのかもわからん。このわしが、このわしの王国の中で、な」 「絶対の危機とは、Dのことでしょうか?」 「わからぬ、としておこう」 「それは——」  キマは主人から眼を離し、周囲の光景を見廻した。  そびえる壁は山脈のように、頂きが見えぬ。天井は——あるのだろうか。いや、壁自体もあまりに遠く、ここを部屋と呼ぶには、入ったものを孤独に苛ませずにはおかない広大さがあった。  キマとても王国のすべてを知悉しているわけではない。それはヴァルキュアしかいない。だが、そうやって納得するには、刻々と黒い不安が湧き上がるのはどうしてだ。  ここは何処なのだ。 「来たぞ」  とヴァルキュアが言った。  その顔が白々とかがやいた。  彼が腰を下ろした椅子の向うに何があったのか、キマは憶い出そうとしたが、うまくいかなかった。  光だけがあった。  その奥から、キマの知らないものがやって来る。  ヴァルキュアさえ、得体の知れぬものが。  黒鉄の世界が、どこまでも白くかがやいた。  Dはスーの変貌を心得ていた。カラスとのやり取りが耳に入ったのである。  無事ならば、ヴァルキュアの城へと向かっているに違いない。ならば、彼も行く。兄と妹を守ること——それが二人の母との契約だったのだ。  月光の下に眠る平原には、動くものの姿はない。  Dは北へ向かっていた。復活した地点から三キロと離れていない。  ほどなく前方に、広大な建設現場らしきものが姿を現わした。  どれを取っても見上げるばかりの巨大なメカニズム群が音もなく動いている。  そのとおりだ。数千数万トンのメカは、あらゆる音をたてていないのであった。 「解せぬな。何をしておる?」  左手の疑問は妥当なものであった。  巨大なメカは三台ある。高さ三〇〇メートルを越えるような櫓《やぐら》というべきか。  だが、三角形をこしらえたその配置の中央には、何ひとつ存在しないのだ。  そのとき——  まさに三角形の中央にあたる黒い大地に、ぴしりと亀裂が走った。  それはみるみる広がり、内側に秘めた光を放出した。 「いかん——こっちへ来るぞ。逃げい!」  光の奔流は、それこそ怒涛のどよめきを上げて、メカの足もとを流れ、下流へ——Dの立つ平原へと押し寄せた。 「あそこに丘がある。急げ!」  左手の指さす左方に、大地の瘤にも似た隆起がそびえたっている。  Dは風を巻いて走った。  背後で、光のどよめきが聞こえた。 「間に合わんぞ!」  叫んだ刹那、Dの身体は跳躍した。  ワンジャンプ——三〇メートル。軽々とDはクリアして、急傾斜の中ほどに着地するや、もう一度地を蹴って頂きに舞い上がった。  丘の麓にぶつかり、反転しどよめく光る水の行方を追うと、左手が先に、 「あれは——何が廻っておる?」  水流はすでに丘を迂回して平原全体の水没を企んでいたが、丘から二〇〇メートルばかり北の大地で、水に押されて回転中の品があるのだ。  水車か。直径は一〇〇メートルを下るまい。だが、水車なら水の力をエネルギーに変えて粉をひく、電気を点ける——そのための付属施設が、どうしても見当たらないのだった。  この膨大なエネルギーを、誰がどう使おうというのか。  足下に来てみると、その巨大な櫓に似た建造物は、底無しに高い塔のように見えた。 「凄いわ。動いているのに音がしない。それに何かをつくっているの、それとも壊そうとしてるの?」  スーの言葉にスーラはこう答えた。 「おれも……はじめて見る……メカニズムだ。ヴァルキュア様のやることは、よくわからん」 「東部廃棄地の隅で、次元堤防が決壊いたしました」  とキマが言った。 「わかっておる。あそこは大分、ガタが来ておったからな。自然決壊であろう」 「——大公様の手によるものではありませんか?」 「ほう——残念ながら、な」  ヴァルキュアの瞳に凄まじい好奇の波がゆれた。 「あのようなささやかな堤防を決壊させ、はて、誰が、何をやらかすつもりじゃ?」 「さて」  とキマが答えたとき、頭上から機械の合成音が、 「重力場牢獄から、囚人が脱走いたしました」 「何!?」  ヴァルキュアの頬が震えた。重力場牢獄に封じてあったのは、絶対の危機に唯一、彼を救い得たはずの何かだった。 「助けて」  丘の半ばまで達した水の怒号に混じって、こんな叫びをDの耳は聞きつけた。  あの声は——スーだ。  声の方角はわかる。  Dは眼を凝らした。  五〇〇メートルほど向う——いま、水が襲いかかったばかりのこちらは低い丘の上に、ふたつの人影が見えた。スーとスーラと。  救出と殺戮の手立てをすでに考えついたのか、Dは丘の端へと歩きはじめた。  足が止まった。  稲妻に貫かれたように彼は停止し、四方を見廻した。 「何じゃ、いまのは?」  虚ろな嗄れ声には、驚愕が詰まっていた。 「何処におる?」  と訊いたときにはもう、Dは頂きから巨大なメカニズムの方へ眼をやっていた。  噴出する光る水の向うに、人影が見えた。  身に貼りついたような銀色の衣裳に包まれた姿は、素晴らしいプロポーションを持っていた。問題はその表情だった。顔のつくりは気品に充ちていた。特筆すべきは、切れ長の双眸と唇であった。負けずに美しい——Dと。  だが、Dの眼はさらに冷たく、そこにある想いがあった。  この男に感情は無縁だった。両親が眼の前で死んでも哀しみもしまい。殺されたとしても。——否、その手で殺しても。  と、銀色のタイツ姿は奔騰する光る水と平行に右手をのばした。ひん曲がった鉄棒を握っている。  何やらつぶやき、男は鉄棒の先端を水につけた。  ひとすじの光が天へと噴き上がった。  水だ。  その怒涛が直径三〇センチほどの水柱と化して、天空へと吸い込まれていくのだ。地上の流れは逆に走った。  それがどれほどのスピードであったか、みるみる黒い大地の肌が露出するや、メカニズムの下から噴出するかがやきも天へと舞い上がり、二秒とかからぬうちに汲み尽くされたか、ぴたりと止まったのである。 「やるぞ、あいつ」  と左手が愉しげに言った。 「凄まじいパワーを滲ませておる。あれを隠す力も兼ね備えておるはずじゃが、ああも無防備に露出しているとなると——生まれたばかりか」 「ヴァルキュアの手の者か」  とDがつぶやいた。 「間違いあるまい。しかし、解せぬな。あいつの滲出する力——おまえと瓜ふたつのパターンを示しておる。要注意だぞ——と言っても、聞く耳持たぬであろうが、注意せい。接触は避けるべきだ。——うおお」  Dは空中にいた。  丘陵から一気に跳躍したのである。  スーは血も凍る思いだった。  スーラは、ここで水に囲まれた方が恩寵だといえるほど衰弱しているのだ。ミランダに与えられた傷は、スーが戦慄するほどの速さで、巨人の体力を奪い去っていった。  放っておけば死ぬ——スーはともにヴァルキュアのもとへと赴く決意を固めた。ここへやって来たのは、スーラが苦しい息の下から、近くに工事現場があると告げたためである。領土拡張というより強化のために行われる工事で、追放以前に着工されて以来、五千年も続行中だという。  昔は、人工生命体《ホムンクルス》や人間を労働力として利用したため、彼ら用の宿泊施設や医療施設も造営され、いまも稼動中のはずだ。  夜を徹して歩き、ついに辿り着いた。  現場はあった。施設も見えた。疲弊し切った身体にも喜びの小さな流れが走り——その直後の大洪水であった。  わずかな台地にいたのが奇跡に思えたが、それも束の間、荒れ狂い牙剥く水の奔騰は、為す術もないまま二人を呑み込もうとした。  そこへ、もうひとつの奇跡が。  死の水は丸ごと空中へと消失した。  茫然と見廻すスーの眼は、水流の源に立つ銀色の人影を捉えた。  あれは?  向うもスーたちに気づいた。  近づいてくるその姿を、スーは五分五分の恐怖と期待とを抱いて見つめた。 [#改ページ] 第四章 三位一体説    1 「スー」  足下で息も絶え絶えの声が呼んだ。 「おれを立たせろ」  スーラも接近中の怪人に気づいたのだ。 「でも、無理よ、その身体じゃ。あの人が敵とは限らない。ヴァルキュア様の部下と考えた方が正解よ」  スーの洗脳はまだ解けていない。  銀色の若者は、水流のえぐった渠《きょ》を渡りつつあった。確かにヴァルキュアの領土で呼吸するものは、彼の臣下と見た方が無難だ。 「違う」  とスーラが口にしたとき、スーはすぐには信じられなかった。 「でも——」 「おれが……見るのははじめてだ。……あんな部下は……おらん」 「そんな」  スーは茫然と、台地を上り切って二人の前に立つ男を凝視した。 「貴様——何者だ?」  とスーラが訊いた。巨体は立ち上がっている。  男は首を傾げた。質問の意味がわからない、というより、言葉自体が理解不能という風である。妙に子供じみた仕草に、スーは困惑した。 「おれの名はスーラ。ヴァルキュア様の臣下のひとりだ。この領地にいるからには、知らぬはずはあるまい?」 「ヴァ……ル……キュ……ア」  と男はつぶやいた。  Dにもひけを取らぬ美貌が、急に変わった。  スーラが驚きの声を上げた。  そこに立っている男は、ヴァルキュアの顔を持っていたのである。 「お、おまえ——いや、あなた様は……」  変化《へんげ》とわかっても、ヴァルキュアの顔を持っているものを、スーラはおまえと呼ぶことができなかった。  男——ヴァルキュア2とでも呼ぶべきか——は、むしろ、のんびりとした動きで右手を上げた。鉄の棒を握っている。 「下がれ、スー」  スーラの剛腕がのびてスーを襟ごと後ろに引き戻す。  ふり下ろされた棒が、空中で消滅した。  スーの足下には太い溝が弧を描いていた。  ヴァルキュア2は奇妙な表情を浮かべて、右手を引き戻した。棒も戻ってきた。  スーラが前へ出た。棍棒を握った右手ばかりか、全身が震えている。断末魔の痙攣に等しい。ここまで来れただけでも、奇跡に近いのだ。  輪の外からの攻撃はことごとく消滅し、内側の一撃はふさわしい効果を上げる。——スーラの秘術だ。  スーラが棍棒を突き出そうとした瞬間、ヴァルキュアの顔を持った男は、鉄棒をふり下ろした。  スーラの右肩が異音を発した。  男の棒の半ばまでが巨人の肩を打ち抜いたのを、スーは見た。棒は消えなかった。  スーラの右半身は忽然と消滅していた。  巨人はよろめき、スーの方を向いた。哀しげな、許しを乞うような表情が岩盤のような顔を埋めた。 「済まない」  そして、彼は地響きを立てて自らの陣の内側《なか》に崩れ落ちた。  その巨体にすがりつくスーを、ヴァルキュア2は、きょとんとした表情で見下ろした。自らふるった凄まじい力に対する自慢も、敵に対する軽蔑も、死者への憐れみも、かけらもない。  スーを見下ろしたまま、数秒突っ立っていたが、不意に棒を逆手に持ち替えると、左手も添えて垂直に持ち上げた。  ずい、と前へ出た。輪の中へ入っても、その姿は消えなかった。  垂直に下ろせば、棒はスーの首すじを貫通する。  ヴァルキュア2は狙いを定めなかった。無造作に下ろした。  その瞬間、第二の奇跡が起こった。  絶妙としかいいようのないタイミングで、スーが右へずれたのだ。  棒はその左肩を貫いた。  ワン・テンポ遅れて、スーの脳が事態を理解し、口腔から絶叫を迸らせた。  左肩と左腕は消えていた。細かい塵のようなものが、一瞬、空気を灰色に煙らせた。  鉄棒が引き抜かれた。  二撃目の逆落としが待っている。  何の感情も浮かべず、ヴァルキュア2は棒を落とした。  それは途中で止まった。  左腰から刀身が生えていた。  ヴァルキュア2は身を翻した。  刺したのではなく、斬りつけたように斜めに突き出ていた刃はそのまま、身体は背後のDを向いた。 「ヴァルキュアか?」  やや驚いたような嗄れ声とは裏腹に、石をも震わせる美貌は無表情である。 「いや、違う。——名前は知らんが、肝は太いらしいの」  ヴァルキュアの顔をつけている相手だ。こうも言いたくなるだろう。  Dは刀身を抜いた。  ヴァルキュア2の手がそれを掴んだ。  刀身は止まらず引き戻されたが、指は落ちなかった。傷はすべて瞬時にふさがってしまったのである。最初の一刀も、突いたのではなく、右首すじのつけ根から、斜めに斬り下げた結果であった。 「刃は効かぬぞ」  と嗄れ声が言った。  ヴァルキュア2の眼がぼんやりと、そっちを見た。  その首を銀光が真横に薙いだ。  頚部の中央に真一文字に白い筋が走り、すぐ消えた。  首は飛ぶはずであった。  首はもとの位置にあった。  右手のひらが頭頂に乗っていた。Dの刀身が通り抜けた刹那、ヴァルキュア2が電光の速度で押さえたのだ。  天上の美貌と対峙するその後ろで、 「——D……」  とスーが呻いた。 「D」  ヴァルキュア2の表情が、声と同時に変わった。 「ほう」  と嗄れ声が感嘆した。  Dを見つめているのはDであった。  黒い光が走り、銀光が交差した。  鈍い音をたてて、鉄棒と刀身が噛み合った刹那、棒は斬りとばされた。  同時にDの身体は後方へ吹っとんだ。 「——D」  とつぶやいたのは、Dの顔である。彼は両手でその顔を撫でた。指先を震わせているのは、恐怖より好奇心のようであった。 「……D」  もう一度つぶやいて、彼は歩き出した。スーラのこしらえた輪の中へ。  その身体は消滅し、真向いの輪の外へと現われた。 「D」  彼がつぶやきつつ台地を下ってすぐ、Dが昇ってきた。  足を止め、上体が震えると、彼は血を吐いた。  ヴァルキュア2——いや、Dの顔を持つ男のパワーは、本物に内臓破裂を引き起こしていたのである。 「スーが先じゃぞ」  と左手が釘を刺したのは、Dの眼が渠を渡る男の方を向いていたからである。  Dは身を屈め、スーの左肩に左手を当てた。 「傷の表面は硬質化しておるな。問題はショックじゃ。神経系が大分いかれておるぞ」 「何とかできるか?」 「応急処置はな。後はあそこの設備次第じゃ」  Dはスーの顔から視線を移動させた。  例のメカから一〇〇メートルほど左手に、地上に突き刺さった流れ星のような菱形の建築物が見えた。短径は一〇〇メートル、長径なら五〇〇メートルを越す。 「病人がノイローゼになりそうな場所だが、あのサイズなら、医療施設もあるじゃろうて」  左手の言葉どおり、広大な建築物の内部には、管理区、居住区と医療施設も完備していた。  Dはスーとスーラを担いで運び、閉ざされたドアを、壁にあてがった左手だけでオープンさせた。  施設の異物排除装置や防御機構は、Dの青いペンダントの前に効力を失った。  近隣の村人が見たら、奴隷として使役されてもここで働きたいと言いかねない医療メカが、スーラとスーのために選択した治療法は、ナノ・マシンによる細胞と骨格の複製《コピー》であった。  十万分の一ミクロン単位の医療マシンが、みるみる人工筋肉と疑似骨格とを製造してゆく様は、魔法に近かった。無から有を生み出す錬金術師の夢の実現はこれなのかも知れない。 「スーは助かりそうじゃが、でかいのは危ない」  と左手が、スクリーンに映る治療データを見もしないで[#「見もしないで」に傍点]言った。  彼[#「彼」に傍点]はDの眼を通して読み取ることが可能なのである。 「あれは、貴族の魔手にやられておる。いかに“ヴァルキュアの七人”といえど、いざとなれば貴族には敵わんとみえる。スーとも仲が良さそうじゃったが、さて、どうする?」  冷たいものが脳を刺激し、スーは眼を醒ました。  Dが立っていた。  何を訊いても答えず、彼はスーを磁気移動チェアに乗せて、病室から治療室へと導いた。  治療台の上にスーラが横たわっていた。 「あと五分と保たない」  Dは静かに告げた。美しい死神がいるとすれば、こんな風に違いない。  スーは巨人に近づいた。  刺客に救われた。道行きの途中で感じていた想いが、いま、はっきりとした形を取った。  スーラも、ヴァルキュアとともに五千年を生きた男だった。そんな生命が、いま尽きようとしていた。  何を言ったらいいのかわからない。  黙って、巨人の手を握った。  思ったよりずっと分厚く柔らかい手は、ひどく冷たかった。 「スー……」  気のせいかと思った。次は確かに聞こえた。 「……行く……な」  それは、大公のもとへ行くなという意味か、それとも、自分のそばを離れないでくれとの哀訴であったろうか。  冷たい手を頬に押し当てて、 「行かないわ、どこへも」  とスーは言った。  それきり何も言わず、五分と少したってから、スーラはこと切れた。 「小惑星ミサイルは不発に終わりました」  と、誰かが別の誰かに報告した。 「しかも、目標には何ひとつ具体的な被害が出ておりません。まるで、ミサイルが途中で消滅してしまったかのようです」 「“絶対貴族”なら、それくらいのことはやるだろう」  と誰かが答えた。左手の人さし指に大きなダイヤの指輪をした男だった。 「でしたら、もう手の打ちようがありません。首長が認められるのでは」 「我々の先祖が貴族と戦ったとき、唯一の武器は朝を待つ忍耐だった。人間、あきらめが肝心、ではないのだ」 「——では?」 「小惑星ミサイルが不発でも、止められぬものがあるということだ。天からが駄目なら、地から」  長い間《ま》があった。恐怖を醸造するための間であった。 「……まさか、あれ[#「あれ」に傍点]を使うおつもりでは? ……大陸がひとつ消滅してしまいますぞ。いや、二次的被害の規模を考えたことがおありですか?」 「小惑星ミサイルのときは考えなかったというのかね?」 「……ですが、あれ[#「あれ」に傍点]は……」 「これ以上、議論してもはじまらん。あと必要なのは、決行の時間《とき》だけだ」  決定が下った。いつの時代でも、どんな状況でも、決定とは非情なのだった。    2  銀色の衣裳をまとったDは、さらに谷間の奥へと向かっていた。  鋼の崖の間に、忽然とエネルギー精製工場と思しい巨大施設が現われた。  広大な敷地も施設も沈黙に包まれ、動いているものはひとつもないが、男には、それが稼動中だということがはっきりとわかった。  数分をかけて、男は建物の前に立った。  前の顔をしていたときはフリーパスだった防御機構が、今度は全力を挙げて襲いかかってきたが、破壊ビームも重力波も超力場も、男が手にした鉄棒のひとふりで破壊された。  鉄棒が建物の壁に当てられると、建物全体が陽炎のように歪み、みるみる消滅した。  男は次の建物に移った。 「第16エネルギー・プラントが破壊されつつあります」  とキマの声が言った。  ヴァルキュアは眼を開けた。  長椅子の上である。周囲は深い闇で満たされていた。  いまは昼である。明かりを落としただけの偽りの闇では貴族の行動の自由を保証はできない。陽光による崩壊を防ぐのみで、行動は束縛される。身じろぎひとつできないでくの坊が昼の貴族の姿だ。  だが、ヴァルキュアは寝台から下り、空中に向かって、 「映せ」  と命じた。  差し渡し一〇メートルと五メートルもあるスクリーンが天井に出現し、崩壊する施設と破壊王とを映し出した。 「ふむ、今度はDの顔か。ならば、この領土を破壊したくなるわけだ」 「目下、彼の脳はDの精神に支配されていると思われます。このままいけば、領土の全施設が破壊されるでしょう」  ヴァルキュアは大きくのびをした。 「昼だというのに難儀なことだな、キマよ」 「ご同情申し上げます」  キマの声は、笑いを含んでいた。凄まじい破壊を眼前にして、こちらも凄まじい主従であった。 「馬車を出せ」 「何なら私がすぐにお連れ申しますが」  ヴァルキュアは闇が凍えるような微笑みをつくって、 「必要なのはムードだ。忘れるな、キマよ」  と言って部屋を出た。  陽光の下を六頭立ての馬車が疾《はし》り出したのは、それから一〇分後であった。  見るものの眼に、それは楕円の闇に包まれた馬と車体の疾走に見えたであろう。  闇は風を巻いて疾った。  十二個の踵が火花を上げて停止したのは、それから半日を経過した平原の上だ。  前方から人影がひとつ、よろめきつつ近づいてくる。  半顔は血に染まり、白いドレスも半ば焼け焦げ血にまみれているが、間違いなく歌姫カラスだ。  小惑星ミサイルのもたらした衝撃波を、もろに食らった妖女は、かろうじて生命を取り止めたが、まさしく半死半生の姿で、ここまで辿り着いたのであった。  馬車のドアが開き、闇に包まれた人影が地に下りた。  右手に下げられた長剣は“グレンキャリバー”に間違いない。 「カラスか——他の六名はどうした?」  労りの一片だにない声であった。カラスは地上に片膝をついて平伏した。 「私と——スーラ以外はことごとく」 「スーラも死んだ。そして、おまえも長くはあるまい。カラスよ、使命を果たし得ぬ以上、運命《さだめ》はわかっておるな」 「——もう一度、機会を与えてはいただけませぬか?」 「ならぬ」  歌姫の身体は吹きつける風と同じ方向に倒れた。主人の非情冷血な言辞が、その生命力の最後のかがやきも奪い去ってしまったのだ。 「ここで朽ちるもよし、人目につかぬ場所でひとり滅びるもよし。我がヴァルキュアの名を辱めぬ死に様を選べ」  そして、身を翻して馬車に戻るや、非情の闇はカラスのかたわらを走り去った。  動かぬ身体を、風ばかりが打ち過ぎていく。すでに夕暮れどきを過ぎ、闇が世界の支配に名乗りを上げていた。  ひとつの死を腕《かいな》に抱いた世界は無音であった。  そこへ、 「わかるか、カラス?」  と声が降ってきたのである。  ぴくりともしない身体に、身を屈めてそっと手を触れたのはキマであった。 「使命を果たせぬ刺客は滅びるのが宿命——とはいうものの、女の身に、これはあまりにも憐れだ」  彼は長衣の内側から注射器らしき品を取り出し、カラスの首すじに先端を押しつけた。  一〇秒ほどして、生命なき身体にかすかな痙攣が走り、かすかな呼吸音が沈黙の世界に流れた。 「そのままでおれ。いま、しばしの生命を長らえたが、おまえの生はじきに尽きる。だが、その前にして欲しいことがあるのだ。おまえ、大公様を怨んでおろう?」  返事を要求はされなかったのに、カラスの頭が首肯する形に動いた。 「ならばよし。私と一緒に来い。最後のエネルギーを、ある遠大な目的のために燃焼させるのだ。それが、世界を救うことになるやも知れん」  言い終えると、キマは歌姫の肩にその手を乗せた。  二人の占めていた空間に風が吹き込む音は、あまりにもささやかだったため、誰の耳にも届かず、そして、闇落ちる鋼の平原に、聞くものは存在しないのであった。  何処か遠くで、電子音楽のような調べが聞こえた。  マシューの顔色は青ざめ、一歩でも遠ざかろうと、彼は足に力をこめた。  突然の爆風で横転した自走車から脱出したのは、脳内にあるヴァルキュアの精神が、コンピュータの眼をくらませたからだ。  実に、マシューはブロージュ伯の手によって、危険な脳内精神を削除するための手術を受ける寸前だったのである。そのためのエネルギー源は、車内の原子炉の他に外部から求めねばならなかった。Dとスーが遭遇したあの大水流である。あれはブロージュとミランダの思念が地下水脈を捜し当て、刺激を加えた結果であった。  スーの誘い出しには成功した。ともに脱出するはずが、やはり世の中、そう甘くはなかった。  いま、ようやくその機会を得たマシューが、必死の思いで先を急ぐのも当然といえた。  気がつくと闇に囲まれていた。時折、遠くに青い稲妻が走る——はずが見えない。 「ん?」  あらためて見廻す眼に映るのは、闇を圧してなおそびえる黒い屹立である。  いつの間にか、谷間に迷い込んでいたらしい、と知ってマシューは奇異の感に打たれた。  これまでわからなかった[#「これまでわからなかった」に傍点]はずがない。  脳内のヴァルキュアは、進むべき正しい方角へと、あたかも鳥と地磁気のごとき関係でマシューの歩みを誘導してくれるはずであった。  それによる[#「それによる」に傍点]と、絶対に谷間へは入らない。 「どういうこったい? 別の奴に導かれてるのか?」  口に出しても答えるものなどない。  マシューは歩きつづけた。  ふと、気がついた。こっちへ行ってはいけない[#「こっちへ行ってはいけない」に傍点]。谷間を出るんだ。  それなのに、足は歩きつづける。いまや地面の傾斜ははっきりと身体に伝わってきた。  脳裡に閃いた。 “尾行者”だ。  ヴァルキュア大公が、侵入者の“接待”用に領土のあちこちにばら撒いていた妖物どものひとつだ。  背後をそれに取られた生物は、そいつの操るままに導かれ、やがて歩き疲れて死ぬか、そいつの巣で食い殺される運命だという。 「どっちも御免だ」  マシューは必死で、ヴァルキュアの知識を探った。 “尾行者”の弱点は?  どうしても思い浮かばない。衝撃波のせいで頭を車体にぶつけたが、そのためか。何とかしなくては。  マシューの煩悶をよそに、足は勤勉に動きつづけ、深い谷間へと彼を導いていく。  空には青い月がある。  マシューの足下にも影が落ちている。  やがて身体は道と水平になった。  周囲は巨岩——といっても、鋼の世界だ。岩も三角形、四角形、二等辺三角形といった幾何学形状体ばかりだ。  その岩[#「岩」に傍点]の間に、マシューは入り込んだ。鋼の世界に自然に出来上がった窪みのようなものは存在しない。すべて前もって造られている。 “尾行者”の巣も、この領土建造当時から設けられていたものであろう。  長方形の穴が穿たれている。鋼の洞窟だ。  一〇メートルも進むと、急に左右に広がった。  マシューは眼を剥いた。  おびただしい数の人間がそこに積み重なっていたのである。  いちばん下は重みで砕かれた白骨だ。二メートルあたりから干からびたミイラに変わり出す。それが一〇メートルも。数は千を越すだろう。 「肉を食うんじゃないんだ。ただ、歩き疲れて、こうやって——」  ——歩き疲れた人間は、ここで朽ちるのを待つしかない。  凄まじい疲労感が足底から上昇してきた。  疲れた。もう休みたい。  マシューはふらふらと死体の山へと進み、ミイラのひとつに足をかけた。そうやってよじ昇るのだ。  もう手も足も動かない。ただ昇るしかできない。  足に力を加えた。ミイラの胸骨が音をたてて砕ける。  悲鳴のようなものが、背後で上がった。  その刹那、マシューの全身に力が漲《みなぎ》った。足を離し、彼はふり向いた。  背後に黒い影が身をねじっていた。人間そっくりの二次元の存在——の胸を、これは十分な太さと質量を備えた長槍の穂が貫いていた。  瞬時に影は消えた。  槍だけが残った。  長い穂から柄に移り、その長さは優に六メートル。それを片手で握りしめた巨影の身長四メートル強。 「妹とはえらい違いじゃ。この大たわけ」  侮蔑の塊を吐き捨てたのは、ブロージュ伯爵に他ならなかった。    3 「ど、どうして——ここに?」  自然に出た第一声は、至極当然なものだった。狼の餌食になろうとした瞬間、人食い虎に救われたようなものだ。 「おまえは逃げ出したつもりだろうが、念のため、頭から追跡用の放射性物質を浴びせておいたのだ。わしは五〇〇メートルばかり離れて追尾しておった。おまえが“尾行者”に憑かれたのも、ちゃあんとわかっていたぞ。——とっとと出るがいい!」  言うなり伯爵は前方のミイラと白骨群へ長槍を突き出した。  そこには何もないのに、マシューは耳を押さえてよろめいた。この世界の存在のものではあり得ない悲鳴が上がったのである。そして穂の半ばあたりで、何か手足を備えた生きものの姿めいたものが、一瞬、煙状に浮かび上がり、ブロージュへ飛びかかるように見えたが、たちまち消滅してしまった。 「“尾行者”は始末した。行けい」  絶望的な気分で洞窟を出たマシューへ、伯爵は無言で長槍を自走車へ向けた。  ため息をついて、ドア・ノブに手をかけたそのとき——  伯爵が虚空をふり仰いだ。  歓喜の炎がマシューの身を灼いた。  途方もない鬼気が夜気に満ちていく。虚空を覆っていく。 「ヴァルキュアか」  と伯爵がつぶやいて、前方——谷の奥を見つめた。  鬼気が来る。  鬼が。  マシューですら、青ざめた。  道の彼方に人影が凝縮した。  二人の声が運命のように重なって、ひとつの名前を呼んだ。 「——D!?」 「いや、違う」  伯爵がかぶりをふった。  マシューにもわかった。Dは銀色のタイツなどまとっていない。鉄棒など下げてもいない。 「Dの顔にヴァルキュアの気か。これは面白い研究課題だな」  にんまりと笑う伯爵の口もとからこぼれる牙。 「はたして戦っていいものかどうか。——よし」  伯爵はいきなり、マシューの襟首をひっ掴むと、軽いひとふりでDの顔を持つ男の方へ放り投げた。  狙い違わず、尻から落ちたのは彼の足下であった。  伯爵の意図は明瞭だ。Dなら——というより味方なら、マシューに手も触れまい。一方、ヴァルキュアの一派なら、拉致なり殺すなりするだろう。  何かが伯爵に起こっていたようだ。何があっても守ると誓ったマシューを、このような実験材料に供すとは。 「わわわわわ」  夢中で起き上がろうとしたが、打ちつけた尾てい骨《びていこつ》の痛みがそれを許さない。  Dはぼんやりとマシューを見下ろしている。  虚ろな、しかし、かがやく美貌にある表情が動いた。  すっと鉄棒がふり上げられる。  マシューがひいと叫んだ。  棒をふりかぶったまま、Dの顔は前方へ進んだ。 「どうやら、敵ではないらしいな」  近づく人影を見つめてブロージュ伯爵は筋肉の線をゆるめたが、決して油断していないのは、その眼の光で明らかだ。  Dは恐れる風もなく、伯爵の二メートル前まで来て足を止めた。 「何者だ?」  と伯爵が訊いた。長槍は地に垂れているが、ひとたび事あれば秒瞬の間に跳ね上がって、串刺しにし得るパワーと速度を十分に秘めている。 「……D」  と男は少し間を置いてから答えた。 「違う。顔は瓜ふたつだが、身体つきは別人だ。だが、あの美貌をこれほど正確に再現できるとは、それはそれで興味の湧く男よ。おぬし、ヴァルキュアとはどんな関係がある?」 「………」 「——!?」  愕然と伯爵の長槍が上がった。Dの顔が忽然と変わったのだ。  有無を言わさず地上から逆流れに迸る長槍。地軸をゆるがすような衝撃に、伯爵の表情が変わった。  男が、鉄棒で受けたのだ。にやりと笑ったその顔は、まさしくヴァルキュア。 「おのれ——化物!」  絶叫とともに伯爵は槍をふった。受け止められた形のまま、貴族の怪力——ヴァルキュア2は、その身体ごと空中高く跳ね上げられていた。  為す術もないその身体へ、ずん、とブロージュの長槍が貫きとおる。  どっと落下した身体は、長大な杭に射止められたちっぽけな虫だ。  のたうち廻る身体に合わせて槍はしなり、風を切って唸る。凄惨無比な光景に、マシューは眼を閉じ、伯爵は哄笑した。 「おかしな術を使うが、いずれにしてもヴァルキュアの顔を持つ男——生かしてはおけん。主人の前にあの世へ行って、地鎮祭でもしておくがよかろう」  彼は地上をのたうつ男を見た。男も伯爵を見ていた。 「おお!?」  今度こそ、掛け値なしの驚愕の叫びが、伯爵の口から迸った。 「ヴァルキュアの顔——Dの顔——そして———御神祖の!?」  驚きのあまり、 「不思議だな、ブロージュ」  こう聞こえても、伯爵はすぐにはふり向けなかった。  ようやく、男のやって来た道の奥へ眼をやって、闇にかがやく黄金のガウンを認めた。  全身が戦闘態勢に入る。そして、ようやく、 「ヴァルキュアよ、今度こそ本物だな」 「言わずもがなだ、ブロージュ——我が領土へ来た以上、運命に殉じる覚悟はしておろうな」  こう返して、黄金のガウンを跳ね上げた右手に光る長剣“グレンキャリバー”が月光を刃筋にちりばめた。  対して——ブロージュ伯の表情に動揺の色が浮かんだ。彼の長槍は地面をのたうっていた。 「取るがいいぞ、ブロージュ」  ヴァルキュアはのたうつ影に顎をしゃくった。 「だが、気をつけろ。その男は——」  最後まで聞かず、ブロージュ伯は長槍へと走り寄る。  その柄に手をかけた、と見えた刹那、長槍は消滅し、逆に巨人の心臓を胸から背まで貫き通った。 「ぐおおおおおお」  この世ならぬ苦鳴を発してのけぞる伯爵へ、 「気をつけろと言ったぞ」  ヴァルキュアはうすく笑った。 「おのれ——おのれえ」  ブロージュ伯は血を吐き両手で槍を掴んだ。彼の長槍なのに、その剛力をもってしても槍はぴくりとも動かなかった。  理由は簡単——たくましい手が槍の柄端を握りしめているのだ。もうひとりのヴァルキュアの手が。  いや、見よ。その顔は月光の下で、月明かりの魔術にでもかかったかのようにヴァルキュアからDへ、Dから別の——もうひとりの男のそれに変幻しつつある。  ブロージュは痛みすら忘れて、その顔に見入った。 「なぜ……なぜ……あなた様が……ここに?」  その眼に徐々に徐々に、凄まじい恐怖の色が煮えたぎりはじめた。 「まさか……他の二人は……まさか……」  伯爵が何を考えたにせよ、それを口にすることはできなかった。  空中から黄金の神が降臨した。マシューにはそう見えた。  月光を満身に湛えて跳躍した“絶対貴族”の一刀——巨人ブロージュ伯の右頚部から左胴まで、一気に斬り抜けた!  だが、ずるりと滑った上体を、ブロージュの巨腕が支え、もとの位置へと戻すとは。 「見事」  言うなりヴァルキュアは長剣を右に引く。とどめは突きか——  そのとき——  虚空から艶やかな笑い声とともに、白いドレス姿が舞い降りてきた。  それはひとりの世にも美しい女であった。女は妖精のように立った。ヴァルキュアの刀身の上に。 「お久しぶりね、ヴァルキュア大公」  艶然たる笑顔に、 「これは、確かミランダ公爵夫人。こちらの都合に合わせていただいたようですな」 「私とブロージュ——いかな“絶対貴族”でも、互角に戦えるかしら?」  艶やかな美貌に、ヴァルキュアは微笑みかけた。 「それは——いま」  その刹那、刀身がわずかに上下するのをマシューは目撃した。  ミランダの足が崩れるや、彼女はその刀身をまたぐ形で降下した。股間から頭頂まで朱の線を引きつつ、公爵夫人は着地したのである。  その朱線から、ぼっと鮮血が噴出したのは、“グレンキャリバー”の刀身が夫人の頭頂を抜けた刹那であった。 「こんなはずは——」  とよろめく美女へ、 「“グレンキャリバー”の傷はふさがらぬ。いかなる分子再生能力を持っていたとしても」  とヴァルキュアは嘲笑した。  ずう、と左右に分かれかけた自分を、ミランダは両手で抱きしめた。  ブロージュは斜めに両断され、いままた妖女もふたつにされた——何たる力の持ち主か、“絶対貴族”とは。 「わしのために今日、この谷へ集まってくれた。礼を言う。この大刀で」  あらためて刃を引く。二人まとめて串刺しにする心算だ。  だが、ヴァルキュアには、それができなかった。魔剣の柄を誰かが握り止めたのである。  ふり向いて、彼はD、と言った。 “グレンキャリバー”を離し、“絶対貴族”は三メートルも跳びのきながら、右手をガウンの内側へ入れた。  流れ星のごとく飛んだのは、長さ五〇センチを越す剥き出しの刀身であった。  それは銀色の胸を貫く寸前、鉄棒に打ち落とされた。  ブロージュとミランダが移動していく気配を知りながら、ヴァルキュアは動けなかった。 「力はわしと同じく、Dと等しい、か。そして、あなた[#「あなた」に傍点]ならどうなさる?」  彼は右手を上げた。  天空を裂いて、青い稲妻がDの顔を持つ男を直撃した。  イオンと無が空気に満ちる。  すでに二人の貴族は谷間の出入口へと逃げている。  白煙と炎が男を包んだ。 「来い」  残されたマシューの腕を掴んで引き寄せ、ヴァルキュアは再び右手を上げた。  ふり下ろす動作には力がこもっていた。それほどの敵なのだ。  二人の周囲で山が動いた。 「わああああ」  マシューの声を、途方もない大質量の動きが呑み込んだ。  まさしく山が動いた。鋼の山が。  岩壁が崩れるなどというレベルではなかった。  海抜数千メートルは下らぬ山が真っ向から激突したのである。  Dの顔を持った男はその間にいた。ヴァルキュアとマシューもまた。  あの小惑星ミサイルの衝撃も及ばぬ破壊波が世界を蹂躙した。  風は平原を叩き、天空へと噴き上がって雲を動かし月輪を隠した。  平原を遠く、衝撃波の名残がどこまでも渡っていった。  いつまでも鳴り熄まぬ轟きの残響がようやく薄れた頃、山はもう一度動いて、もとの位置へと戻った。  はさまれた谷は何事もなかったように月光の下に静まり返り、奇怪な変幻者と“絶対貴族”の姿は何処にも見えなかった。 [#改ページ] 第五章 アカシア記録(レコード)の果てに    1  ヴァルキュアとマシューが城へ戻るとすぐ、キマが駆けつけてきた。 「こ奴を閉じ込めておけ」  と、ヴァルキュアはマシューを部下に渡して、 「見ておったか?」 「すべてを」 「あいつは死んだと思うか?」 「………」 「わしは生きている方に賭けるか」 「遺憾ながら賭けは成立いたしません」  ヴァルキュアは、Dの顔をした男が残したものを憶い出した。  鋼の山脈をぶち抜いた穴である。深さは三メートルもないが、山と山との激突をやり過ごすには十分な数字だ。  ヴァルキュアが、探索に全力を尽くせと命じて引っ込むと、キマはマシューを連れて地下の牢獄へ行き、独房のひとつに放り込んで戻った。独房といっても、普通の部屋とさして変わりない。不可視の障壁に囲まれ、代謝のデータが四六時中記録されるだけだ。監視気流の存在はいうまでもない。  キマは足音を忍ばせて、中央記録管理室へと向かった。  ヴァルキュアが帰城するまでそこにいたのだから、正しくは戻ったである。  広大な管理室にはメカはほとんどない。すべてはメイン・コンピュータ制御だ。何処にあるとも知れぬコンピュータはキマとヴァルキュアの声のみ自らの主人と認めている。  霧のような物質が満ちた室内は、古代の納骨堂を思わせる。  超古代的な、メカニズムの代わりにそびえ立つ石の角門、穹隆《きゅうりゅう》天井、古風な石段、墓標としか思えぬベッド——そのひとつに、カラスが仰向けに横たわっていた。  すでに呼吸《いき》をしていない。  キマはその周囲をめぐる霧を払って、死女の美貌を眺めた。 「わずかな生命だが、よくやってくれた。次は私の番だ。縁があったら、あの世で会おう」  彼は前方を見た。  乳白色の霧が渦巻いて視界を閉ざす。その奥に記録管理室の中枢があった。  霧は霧ではなかった。宇宙にみなぎる物質——エーテルであった。  そこには全宇宙の記憶が、過去と現在、未来にわたって刻まれているという。  貴族の科学力をもってしても、その一部さえ解読することはままならず、歴史上にその名を留めるわずかな人々しか読み取ることは不可能とされていた。  いわく、ノストラダムス、アブラメリン、パラケルスス、スウェーデンボルグetc.etc.そして、“神祖”の名も。  一説によれば、“神祖”はある夜、これを読んで以来、不可思議な実験に手を染め出したといわれる。 「アカシア記録《レコード》」これこそが、宇宙の森羅万象を記した偉大なるエーテルの総称だ。  カラスの最後の生命力を使い、さらに自らの身を投げ出して、キマは何を読み取ろうというのか。 「保管庫のドアを開けろ」  と彼は命じた。  何処かで蝶番のきしむ音が、長い悲鳴に似てつづいた。  乳白の色がキマを押し包んだ。いくら厳重に絶対金属で封じても、エーテルは心霊物質のごとく滲んでしまうのだった。 「彼を甦らせたのは正しい道であったのか。否、彼は何者なのか。私の力の及ぶ限り跳躍して参りますぞ、ヴァルキュア様」  それから、少し間を置いて、 「——D様よ」 「寒い晩じゃな」  嗄れ声が言った。  この建物には無論、風など吹き込んではこないが、左手にはわかるらしい。 「気温など指一本でどうでもなるだろうに。貴族というやつの考え方は、まだわからん」  生ける死者たる吸血鬼は、外気温の影響をほとんど受けないが、それでも、寒暖に関しては常人なみの嗜好を有するとされている。寒さよりはぬくもりを好むというわけだ。にもかかわらず、外気温を自然のままに放置しておくのは、生者への奇妙なコンプレックスというしかない。 「あの娘、眼が醒めれば、何とかヴァルキュアのもとへ行こうとするぞ。洗脳はまだ解けておらん」  ここでひと息ついて、 「さっきの衝撃——まるで山と山とがぶつかったような。いや、さすがに貴族の医療施設よ、よく保ったものだ」  原因不明の大衝撃は、この病院の外壁を破損し、窓ガラスを砕いたが、すべては五秒とたたずに修復されたのである。完璧に近い補修機構の力であった。 「ヴァルキュアならではの力の爆発だが、あそこまでさせる相手といえば、ブロージュとミランダ。いや、もうひとりおったな。ヴァルキュアは、おまえと戦ったのかも知れん」 「勝ったか、負けたか」  窓外の闇を見つめたまま、Dが言った。 「ほう、珍しく気になるか。何にせよ、スーが眼を醒ましたら、早々にここを出て、ヴァルキュアのもとから連れ去るのが賢明よ」  治療を終えたスーは、病室で眠りについている。スーラを失った精神的ショックも大きい。  すっとDが窓辺から離れて、出入口の方へ歩き出した。彼は大ホールにいた。 「おい、何処へ——」  問いかけて、左手は、はっとしたように、 「来おったか」  と言った。  Dはホールの中央へ出た。  天空から月光が差し込んで、内部は闇の昼のようだ。  玄関のドアを開けて、銀色の男が入ってきた。二つのDの顔に、月光さえ恥じらうようだ。  ゆっくりとDの方へ近づいてくる。  あと五メートルというところで、確かな足取りが不意に乱れた。  勢いよく前のめりに倒れる響きが、ホールに広がった。 「殺すな、情報を——」  左手がわざわざ口走ったのは、倒れた男めがけて歩き出したDの右手が柄にかかるのを見たからだ。  冷やかな、凄まじい殺気が床上の男を押し包んだ。  倒れているからと、敵に容赦をする若者ではない。  男の顔が、ひょいと上がった。Dの足が止まる。  ヴァルキュアでもDでもなかった。 「——Dよ」  男は両手を床について上体を起こした。 「——これは……」  左手も絶句した。  しん、と世界は変わった。敬虔な祈りの場が出現したかのように。 「覚えておるか?」  と男は訊いた。  Dの全身から、殺気など比べものにならない鬼気が噴出しつつあった。 「わしは、おまえと——」  Dは猛然と地を蹴った  為す術もなく、男は必殺の一撃を受けた。 「見事だ」  と男は言った。 「だが、時はいまだ、おまえの手の届かぬところに流れつづけている。Dよ、まだ旅をつづけるがよかろう」  ふらりと立ち上がって歩き出す姿には、荒くれ男たちの怒りをも凪いでしまうものがあった。 「前にも言ったが、成功例はおまえだけだ」  自分のかたわらを通り過ぎんとする影へ、Dは再度の一太刀を送ったが、刀身は水のように相手の身体を貫いたきり、男も停滞なく歩きつづける。 「もうよせ」  左手の声が止めた。  男はよろめきつつ、しかし、確実にホールの端のエレベーターへ近づいていった。 「これ以上の攻撃はやめておけ」  と左手が言った。  Dはなおも刀身を手に、歩みゆく男を追った。  エレベーターに乗り込むと、男は、 「下へ」  と命じた。  約二秒でドアが開いた。  紫色の水晶を思わせる物体に埋もれた空間が迎えた。白い光が満ちている。 「ここがわしの研究所だ」  と男が言った。 「ヴァルキュアすら、ここにこんなものが存在することを知らん。ここは地下五万メートルに当たる。病院の下ではないぞ」  紫の物体は、水晶の形を取っているわけではなかった。それは谷間の岩や、ヴァルキュアの実験室に備えつけられたメカニズムのように、様々な多角形であった。  男は部屋の中央に立って右手を上げた。  様々な形は、最も不安定な形を取って、ゆっくりと回転しはじめた。  音も風もない。だが、Dはこの部屋の天地を覆う底知れぬ力とでも呼ぶべきものが、静かに胎動しはじめたのを感じていた。 「一兆——いや、一京《けい》ジュール……いや、もっとじゃ……これなら、人間ひとりを生み出すこともできるぞ」  左手は嬉しげであった。 「……止まった……一〇京超。こんなものを貯えて、一体何をやらかすつもりじゃ?」  そのような膨大なエネルギーが、生の形で存在することはあり得ない。かといってこの世界に存在する何らかの形で貯蔵するのも無理だ。すべては異次元か亜空間に収納されているのだろう。  男の足下から台座のようなものが上昇してきた。先端に紫色のレバーらしき品がついている。  男は一歩離れて、 「これを引け」  とDの方を見た。 「それだけで、ヴァルキュアの領土は根源的な力を失う」 「目的を訊こう」  とDが静かに言った。  鬼気はすでに退《ひ》いているが、ひとたび事あれば、鬼神も硬直する剣技となって顕現するのは言うまでもない。  男は光の中で言った。 「わからぬか。この領土はヴァルキュアのものではない。わし[#「わし」に傍点]のものだ。いや、世界のすべてがな。ヴァルキュアは狂気の増長を遂げすぎた。Dよ——あれ[#「あれ」に傍点]を始末せい」 「おまえ[#「おまえ」に傍点]の都合でか?」  Dの言葉に左手が、おや?という表情をつくった。笑っているように聞こえたのである。 「ああなるはずではなかった。修正が必要だったのだ」 「星々の彼方へ送った——それで済んだのではないのか」 「無益な試みなのは、最初からわかっていた。奴はゼロから帰還用の航路解析チップを製造し、宇宙空間からエネルギーを抽出してしまったのだ。そうならぬよう手は尽くしたが、そうなることはわかっていた」 「おれには無縁のことだ」 「この宇宙には無縁のものなどない」  男は荘厳とさえいえる声で告げた。 「森羅万象はその生成の瞬間から、否、生まれる遥か以前から、濃く薄く結びついておる。ヴァルキュアが宇宙から戻ったとき、Dよ、おまえはブロージュと戦っておった。——単なる偶然と思うのか?」  白い光の中に、黒衣の若者は静かにかがやいた。 「すべては、わしの意志による。Dよ、おまえもヴァルキュアも、そうして巡り合ったのだ。それもやむを得ぬ。Dよ、ヴァルキュアはおまえの——」    2  ——ヴァルキュアは、おまえの——  奇怪な発言がなされようとしたそのとき、 「おお!?」  と驚きの声が上がった。  室内の声ではない。Dと——男のみが感知し得た異界の叫びである。  男が天井へ顔を向け、 「ふむ、アカシア記録を読み取ったな」  と言った。 「ヴァルキュアか」  Dがつぶやいた。 「それよりも、Dよ、戻る準備をせい」  男はドアの方を見た。 「まず、このレバーを操作してからエレベーターに乗れ。アカシア記録保管庫の一部が崩壊した」  光の中に霧のような物質が満ちはじめた。  それはおびただしい星をちりばめた天の川のようにきらめいた。 「記録の漏出は、宇宙のすべてを根源的に狂わせる。わしは止めにゆかねばならん。——Dよ、早くせい」  Dはレバーを見つめた。その身体の周囲をまばゆい天の川が巡った。 「——Dよ」  男の声はきらめきの奥から聞こえた。  Dの右手が刀身自体の跳梁に合わせるかのごとく躍った。 「——!?」  かすかな驚愕の気配が光に呑み込まれた。  レバーは半ばから断たれ、それを支える基部もまた斜めに両断されて床に落ちたのである。 「何故だ?」  さらに遠いところから声は漂ってきた。 「ヴァルキュア抹殺に他人の手は借りぬということか。それとも、この土地の根源的破壊による兄妹の身が気になるか? よかろう。宇宙の定めは鉄だ。おまえたちが相見《あいまみ》えるとき、自ら結論は出よう。そのレバーは、この領土に備えつけられたわしの力を虚無に帰せしめるものであった。Dよ、ヴァルキュアとわしとを相手にせねばならぬぞ」  すでに声の主を追っても無駄と判じたか、Dはコートの裾を翻して戸口へと向かった。  宇宙の根源的崩壊とはいかなるものか。妖々と渦巻く白霧は、黒衣の若者をも呑み込み、無人と化した室内を蹂躙していくのであった。  エレベーターで戻った足でスーの病室へ赴き、Dは柳眉をやや寄せた。スーはいなかったのである。 「はて、何処へ消えた?」  と左手も意外そうな声を上げた。  スーを誘い出したのは、マシューの声であった。  ヴァルキュアの施設にいる限り、所在は明らかになる。“絶対貴族”はそれを知って、マシューの声とイメージをスーの病室へと送り届けたものだろう。病室を制御するコンピュータは、もともとヴァルキュアのものだ。  誘いはDが地下へと消えてからあった。  眼の前で手招くマシューの姿と声に、スーが逆らえるわけもなかった。彼の洗脳はまだ解けていない。  外へ出た。  一〇〇メートルほど進むと、広場の向うから赤い光点がやってきた。ヴァルキュアのパトロール隊である。幻のマシューと同時に近隣のものが出動を命じられたのであろう。  それらは柔軟な触手でスーを絡め取ろうとした。この娘がヴァルキュアのもとへ行けば、彼の復讐の半ばは成就される。  円筒と触手の生きものは、時速二〇〇キロで疾走した。  そうして谷間を抜け、二時間後、別の建造物がそびえる一区画を通過しかけたのである。  何処からともなく飛んできた火線が一体の円筒に触れるや爆発した。  十体の円筒が不意の襲撃に防御と反撃の陣形を取ろうとしたが遅かった。  スーを捕えた一体が大きく傾いた。頭部の貫通孔から青白い火花を噴いている。  機能を停止した身体が横倒しになるより早く、スーは路上へ跳び下りた。  足の裏がひどく冷たい。  眼の隅で炎が膨れ上がり、熱片が頬をかすめた。  夢中で走った。前方に建物とドアが見えた。  跳び込んだ。自動ドアがすんなりと受け入れて閉じた。  安心できなかった。奇襲攻撃をかけてきた相手が追撃してこないとは限らない。目標はあのパトロール・アンドロイドではあるまい。  スーは激しく咳き込んだ。もうもうと立ち昇る埃のせいである。眼を凝らせば、エントランス・ホールらしい空間は、長いこと放置されていた場所特有の白々しさに埋もれていた。  窓からの月明かりを頼りにスーは奥へと走った。  何となく、さっきまでいた病院を思わせる内部が広がっている。広大と言ってもいい。  十字路へ出た。  すべて電子標示で、エネルギーは絶えている。  逡巡していると、背後から足音と気配が近づいてきた。  ふり向いた。  赤い光点が幾つもやってくる。どれも二つひと組で、しかも、円筒より小さい。それを付着した影は人の形をしていた。  まさか、ヴァルキュアの臣下が。それならむしろ安全だ。  スーを走り出させたのは、勘に近い恐怖だった。理由はわからない。  何度も無我夢中で走ったのに、足音は着実に近づいてくる。  息が切れはじめた。  スーは眼についた手近のドアを体当りするように押し開けた。  広いが狭い部屋であった。さし渡し何十メートルもの台の前に、育児器を思わす透明なケースが並んでいる。  その間をスーは走った。  ケースの大半は無事だが、幾つかは破壊され、床上に散乱していた。破片らしい感触が靴底から伝わってくるたびに、Dのもとを脱け出すとき、衣裳と履物をつけるのを待ってくれたマシューに感謝したい気分だった。  右方に巨大なガラスの円筒が見えた。  満たされた液体の内部に人型が浮いている。  部屋の内部には、うす青い光が漂っていた。エネルギー補給装置が、何処かで作動中なのに違いない。  通り過ぎるはずが、何か奇異な好奇心に惹かれて、スーはその物体に眼を注ぎつづけた。  足が止まった。信じられなかった。  食い入るように見つめた。  凄まじい悲鳴が室内に響き渡ったのは、数秒後であった。  あれだ。ブロージュ伯の車内でマシューが見せてくれたもの。これもヴァルキュアの計画のひとつだと誇らしげに語ったもの。だが、眼の前で見るそれの、何と忌まわしいことか。  それは、どう見ても、人間と他の生物との合成体であった。  全長は成人より大きいくらいだが、人間の上半身に、瘤だらけの節足動物のものらしい下半身がつき、しかも、人間の部分は——巨大な胎児そのものではないか。  だが、スーを絶叫させたのは、それではなかった。  恐らくは培養液であろう液体に漬けられたままのそれが、ぴくりと動いたのだ。  叫びは止まらなかった。  叫びながら、スーは後じさった。  その垂れた手首を、冷たく粘っこいものが掴んだ。  こんなものが生きていていいのか。  まず浮かんだのは、これだった。  身体中、腫瘍のような瘤で覆われた五〇センチほどの胎児。だが、その眼は三つ、手は六本もある。  スーの悲鳴は消えていた。 「あ……あんた……あんたは……」  握られた手首を離す気にはなれなかった。動いたら何をされるかわからない。腫れ上がった唇の間からのぞく歯は、肉食獣そっくりの牙だ。  その唇が、ぶよぶよと動いた。 「お腹が……空い……た……お腹が……空いた」 「え?」  スーの身体から緊張が急速に退いていった。  人間の幼児の声だ。間違いない。それが空腹を訴えている。 「あんた……しゃべれるの?」 「うん……しゃべれる……お腹が……空いたよお」 「何てこと——こんなところで、何を?」 「実験だって……言ってた……新しい生命を……作るための……実験……だって……」 「実験って——誰がよ? 誰が、あんたをこんな目に遇わせたの?」  幼児は、おぼつかなげに首をふった。頭が異様に大きなせいで右に左にぶれる。スーは気が気ではなかった。 「わかん……ない……大きな……人だったよ」  スーの入ってきた方角で、足音が聞こえた。 「あんた——ひとり?」 「うん」  スーは幼児を胸もとに抱き上げた。  幼児はぼそぼそとつづけた。 「他はみいんな……死んじゃっ……た……みんな」  走りながら、スーは左右へ視線をとばした。  ケースにも円筒にも、奇怪な実験の成果が詰まっていた。  ミイラ化して、溶け崩れて、腐敗して塵となって——どれも巨大な胎児と妖物の合体だ。  一体、誰が、いつからこんな真似を? こんな実験の果てに、何を創り出そうとしているのか。足下から巻き上がる埃——ここにあるのは、膨大な時間に挑んだ悪魔の実験の名残だった。  不意に、首に手が巻かれた。幼児がのばしたのだ。 「あったかい。柔らかい」  満足そうな声を聞いた途端、スーの眼に涙が溢れた。  幼児は首すじに顔を寄せてきた。意外な腕力だった。  そのとき——  小さな身体が、不意に右へ引かれた。  スーは眼を剥いた。  いつの間にか、追跡者は並んで走っていたのだ。 「何をするの!?」  抱き寄せようとした左腕を、ぐいと引かれた。反対側にもひとり!?  右手も押さえつけられ、幼児は奪い去られた。 「やめて!」  抱き取った影が停止し、小さな影にかぶりついた。  きゃっとひと声上がり、すぐに静かになった。 「何するの!?」  狂気して走り寄ろうとする両肩を、冷たい手が押さえた。 「あきらめろ」  と男の声が言った。 「あれしか手はない。すぐ、胸に杭を打つ」 「——何ですって!?」 「右の首すじに触れてみろ」  もうひとりが言った。  幼児が頬を寄せてきた方である。  ある予感が湧いた。それは黒く冷たかった。  スーが動けずにいると、右手首が掴まれ、人さし指が当てられた。  かすかな痛みが走り、小さなふくらみが伝わってきた。それは二つあった。 「あの子は貴族に改造されたのだ」  と最初の声が言った。 「改造?」 「ここは、貴族と人間をかけ合わせる実験場だった。外の施設すべてがそうだ」 「——かけ合わせる?」  あまりに無造作な言い方に、スーの胸は波立った。  そうしてつくられた新しい生命は、どんなものなのだろう。そんなことを考えた奴は、永劫に呪われてしまえ。  幼児が連れ去られたずっと遠くで、固い打撃音がした。スーは眼を閉じた。  尋常な思考が戻ってきたのは、数秒後であった。頭がひどく痛かった。夢から醒めたような気がした。 「あなたたち……?」 「覚えているか。貴族と一緒だと君を忌みながら、おれたちがその一員になってしまったよ」 「あの調査隊のものだ」  彼らの方を向くスーの眼に、口もとからのぞく鋭い牙が、はっきりと灼きついた。    3 「あなたたち……ヴァルキュア様……に?」  確かに見覚えのある顔を認めて、スーは嗄れ声で訊いた。  男たちは顔を見合わせた。 「いや、おれたちの主人は、ミランダ様だ」  しまったと思ったが、男たちはそれ以上突っ込まず、とりあえずスーをミランダとブロージュのもとへ運ぼうということになった。  それは困る。  スーは渋ったが、男たちにとっては、ミランダの指示が絶対だ。あれよあれよという間に、外へ連れ出された。  音もなく、真紅の光のすじが前後左右に流れた。  ひとりの顔が一閃で蒸発し、つづく二人も上半身と右半身を消滅させて倒れた。 「パトロールだ」 「まだ残っていたか?」 「いや、増援だ」  耳もとで声が入り乱れたと思うや、たくましい腕がスーの腰を抱いて廊下の奥へと走り出した。  後は残った。スーのために時間を稼ぐつもりなのだ。  火の矢が追ってきた。眼の隅が真紅に染まる。  何度か廊下を曲がったとき、男の身体がかすかに震えた。  身体が宙を飛ぶのを感じた。  肩から落ちた身体は、激痛を味わう前に動き出した。  凄まじい勢いで風を切っていく。移動走路だ。時速一〇〇キロは出ている。  スーはふり向いた。  男は走路の手前に倒れていた。身体には首がなかった。  走路はぐんぐんスピードを上げて、少女を闇の彼方へと運び去っていった。  月光の下を自走車は走りつづけていた。  車内には血臭が満ちていた。空気分子のひとつひとつが血に染まり、拳を握っただけで、指の間から血が滲みそうだ。 「止まらないわね、ブロージュ」  青い闇の下でこう言ったのはミランダだ。全裸であった。顔と首のつけ根、豊満な乳房と勢いよくくびれた胴に赤いスカーフが巻かれている。  寝そべった床の上には、同色のスカーフが何十枚も重なっている。  そのかたわらの巨大な寝台から、 「甘く見過ぎたな」  と横たわるブロージュが応じた。  こちらは首から腰まで明らかな包帯が巻いてある。ミランダと同じ色——となれば、ミランダのスカーフも白い血止めの布なのだ。  これまで何十回となく巻きつけ、そのたびに滲出する鮮血に為す術もなく赤く染まってしまう。  ヴァルキュアの一刀に、ブロージュは右頚部から左腰までを斬り離され、ミランダは股間から頭頂まで両断された。  二人とも貴族だ。急所を貫かれぬ限り、細胞は強力な再生機能を発揮して、瞬く間に傷をふさぎ血を止めてしまう。  それが今度ばかりは不可能なのであった。  傷口を固定すれば、内臓の機能は何とか維持できるものの、出血は止まらない。  貴族の肉体は出血に対しても人間の数十倍の耐性を有してはいるが、そのままいけば、いつかは作動不能に陥る。 「じき、動くこともできなくなりそうだ。どうだな、ミランダ?」 「これしきの傷。弱音を吐くようなものではありません」  にべもなく言い捨てた妖女の顔は、しかし、青い光の下で血の気を失って見える。 「ひとつ——提案があるのですが」  ミランダの申し出に、ブロージュは意外極まりないといった表情で、 「それはそれは——何事だね?」 「最後の保証を用意しておかないこと?」 「保証——おい」  ブロージュの声が険しくなった。 「私とあなたのエネルギーを合わせれば、できるでしょう」 「それはならんぞ」  ブロージュの声が、苛烈な意志に震えた。 「あの兄妹を救うと、我らは人間に誓ったのだ。貴族の魂に賭けて、それは破れん」 「私たちが滅びれば、救うどころの話ではありますまい。お互いこんな身体になった以上、ヴァルキュアを斃す策だけは講じておかなくてはなりますまい」 「講じるのは、兄妹を救う手立てだけだ」  白蝋の美女が声もなく笑った。その顔から下腹まで白布の間の肌に朱い垂線が走るや、みるみる血が溢れ出した。 「何ともご立派な貴族だこと。よろしゅうございます。では、私ひとりで策を練りましょう」 「やめぬか、ミランダ」  公爵夫人はかたわらに脱ぎ捨てた、これも血まみれのドレスの下から宝石で飾ったつくりのナイフを取り出し、鞘から抜き放った。 「おい」  うんざりしたようなブロージュの声を無視して、ミランダ公爵夫人は、黄金の刃を心臓の上に深々と突き刺したのである。  のみならず、切り裂いた。長さ二〇センチほどの弦月型の傷が口を開くと、ナイフを左手に移し、右手を傷口に差し込んだではないか。  血が溢れた。  傷口のみからではなく、食いしばった美女の朱唇から。  それでいて、表情に変化はなく、青い光に玲瓏と煙る美貌は、自らの狂った行為を冷やかに見つめている。  かすかな吐息とともに右手は抜かれた。その指は血まみれの心臓に食い込んでいた。  ぶつぶつと音をたてて血管がちぎれる。血が跳んだ。  それでも心臓は鼓動をつづけている。 「私の想い、私の力——すべては心の臓にこもっている。運命の幕はおまえが引いておくれ」  狂気の光さえ宿した眼で語りかける妖女を凝然と見つめつつ、ブロージュ伯爵は長いため息をついた。 「足がないのお」  と谷間を抜けたところで、左手が厳然たる事実を指摘した。 「これでは、ブロージュと出会わぬ限り、ヴァルキュアの城まで何日かかることか。あのキマとかいう男が懐かしいの」  サイボーグ馬をブロージュの自走車につないだまま、Dはキマとともにヴァルキュアの城へ移動したのだった。  Dにもそこはわかっているはずだが、例によって愚痴も文句もなく、黙々と歩きつづけるばかりだ。  その顔が、ふと、西の方を向いた。  それが鉄蹄の大地を打つ轟きだと理解してすぐ、一頭の白馬がDめがけて走り寄ってきた。  Dの前で足を止めたその首すじに黒い手を置いて、Dは何度か撫でつけ、鞍に貼りつけられた銀色のカードに気がついた。 「ブロージュか」  その端に人さし指を当てると、空中に巨人の顔が忽然と現われた。 「おまえの馬だ。足がなくては、何にせよ不便であろう。馬に好かれておるといいが」  これだけ重々しく宣言して、消えた。 「持つべきものは、気が利く貴族じゃな」  左手の揶揄を無視して、Dは鞍にまたがった。  行く先は言うまでもない。ヴァルキュアの城だ。 「近づいて参ります」  ヴァルキュアは、メカニズムの声を聞いた。 「キマ」  と呼びかけてやめた。城に戻ったときから姿が見えない。待つように命じておいたが、距離というものが、何の意味も持たない男だ。  空中スクリーンには、馬を駆るDの姿が映っている。その騎乗ぶりもさることながら、角度が変わるたびに変化する美貌の神秘さに、絶対貴族は我知らずため息を洩らした。 「いかんな、このヴァルキュアとしたことが」  そう言った唇から、細い血の帯が流れはじめた。唇を噛み切って我に返ったのだ。それほどのDの美貌であった。 「美しさもさりながら、腕の方も凄まじい。だが、この前はほんの挨拶代わりだ。次はわしの相手にふさわしいかどうか、将たる器量の大きさで調べてやろう」  にやりと笑った双眸は、山さえ動かした“絶対貴族”の自負と自信に満ちていた。  もはや、対決は避けられまい。だが、この期に及んで、Dを調べたい、知りたいというヴァルキュアの好奇心は、一体どこから出てくるのか。 「夜明けまでの時間は?」 「二時間と十二分でございます」 「あのまま進めば、“次元戦場”でぶつかる。ホムンクルス軍団を二個師団用意せよ」  ヴァルキュアは空中に向かって命じた。  北上するDの前方に、巨大な城壁らしきものが遠望されはじめた。  Dが馬を止めたのは、しかし、そのせいではなかった。  前方から、重々しい足音と車輛の音が近づいてくるではないか。 「これは多いぞ。人間の足音からして、まず、一個師団——三千人。車輛は、そうだな、のべ一千。飛行器具大隊も付属しておるようじゃな。しかし、いかにおまえの実力を知悉しているとはいえ、これは大仰にすぎる。ヴァルキュアは、途方もない臆病者ということになるぞ」  左手の指摘をよそに、もう闇の奥から地軸をゆるがしつつ近づいてくるおびただしい軍靴の響きは、青白い顔をした制服姿となって、Dの前方一〇メートルほどで停止した。  佇むDの前へ、将校姿と思しい男が、こちらは骨格も露わなアンドロイド・ホースに騎乗して現われた。  ぴしりと敬礼を行い、 「自分は、ヴァルキュア大公様指揮下のZ戦闘師団の指揮官クレメンス大将です。ただいまから、貴下に指揮権を委ねます」 「何のことだ?」  とDが訊いた途端、空中の高みに巨大なヴァルキュアの顔が浮かんだ。 「わしから話そう。Dよ、そこにおる五千人、一個師団をおまえにくれてやる。わしに会いたければ、スーという名の人間の娘を救いたければ、彼奴らを指揮してわしの軍と戦え。おまえの将器をわしは知りたいのだ」 「おかしな趣味があるな」  と左手がつぶやいても届くはずがなく、 「あの先に見える城壁の内部《なか》に、わしとスーはおる。同じ数の兵を従えてな。Dよ、これが城内の見取り図だ。わしがどこに潜み、どのような布陣でおまえを待っているか、せいぜい知恵を絞って考えるがよい。断っておくが、おまえの兵は人工生命体だが、確実に生きておる。傷つけば痛みも感じる。Dよ、おまえがそんな彼らをどう見、どう使うか、愉しみに待っておるぞ。夜明けまであと一時間——勝負はその間に決しよう。過ぎれば、わしは退く。おまえがいくら捜しても見つけられぬ寝所へ。この娘とともにな」  ヴァルキュアが消えた平原には、確かに五千の生命が息づき、新たな指揮官の下知を待っている。  ヴァルキュアとの戦い。  しかし、いかにDといえど、まさか五千名の兵と兵器を率いての戦さとは予想だにしなかったに違いない。  孤剣では凌げぬ大戦闘を、Dよ、いかに切り抜ける。 [#改ページ] 第六章 月下戦場    1  もちろん、そこは戦場ではなかった。かといって、城と呼ぶにはあまりに広大すぎた。  次元戦場、とヴァルキュアは呼んだ。  高さ一キロに及ぶ城壁に囲まれた土地の広さは、約五千万坪——山も谷も川も平原も丘陵もすべて外界を模した品が揃っている。  彼はその平原に歩兵と次元砲戦車隊を、丘陵に砲兵隊を配置して、Dとその部隊の到着を、いまや遅しと待ち構えていた。  戦場への門は東西南北に設けられ、一キロ上空から監視飛行体が狙っている。  Dは南の門から来ると、ヴァルキュアは踏んでいた。最短距離だし、入ってから身を隠して進軍しやすい。 「さて、どう攻め、どう迎え討つか」  丘のひとつの頂きに設けた司令部の中で、彼は空中に描かれた戦場の見取り図を眺めていた。  こちらは、Dの行動がすべて最初からわかるが、こちらの配置も知らせてある。いわば互角だ。 「後はDの技倆《うで》次第」  と彼はかたわらのスーを見た。  あの不気味な生体手術センターとでもいうべき建物から高速自走路に乗って辿り着いたのは、ヴァルキュアの城であったのだ。  いまのスーにとっては好都合のはずだ。ヴァルキュアの隣に着席した表情に恐怖の色はない。ところが、満足している風でもないのが妙といえば妙だ。 「Dは来なければならん」  とヴァルキュアは言った。 「あと一時間——夜明けまでに来なければ、おまえの生命はないからだ。と言っても、いまのおまえなら、このわしの犠牲になるのを厭いはしまい。兄の薫陶よろしきを得てな」  スーはうなずいた。  一方、戦場の外に待機中のDはどうしたか。  彼はまず、兵の中から改造技術の専門家を選び出した。破壊された部品を集めて、新しい品を造り出す工兵は、戦場では欠かせない存在なのである。  彼らはDの要求を聞いて、まず驚き、それから得意満面の笑顔を見せた。 「獣を鳥にするよりは、ずっと簡単ですよ」  と彼らは保証した。  Dはつづけて、兵士の中から、射撃の得意な者と白兵戦に絶対の自信を持つ連中を自己申告制で選び、その腕を見て、さらに五名ずつに厳選した。  白兵戦の相手はDがつとめた。銃剣や長槍、剣で襲いかかった兵士たちは、Dの右手の一閃で刀身を砕かれ、長槍を二つにされて降伏した。銃剣など、銃身を掴んで放り投げられ、全員が不合格とされたのである。Dはそれから、遠い平原に列をつくる戦車隊へ眼をやった。  三〇分が経過した。  ヴァルキュアの司令室にコンピュータの、 「南門に接近中、距離三千——攻撃準備完了」  の声が鳴り響いたのである。 「やはり定石どおり。——Dの将としての器も、まずそこ止まり、か」  興味もなさそうに言い捨てて、 「戦場内へ全車輛が入り次第、撃破せよ」  とヴァルキュアは命じた。  結果は彼の脳裡に描かれたとおりの地獄図になった。  D指揮下の戦車は、為す術もなく待ち受けるヴァルキュア戦車隊の次元砲の一斉射撃を受けて、異次元へと放逐されてしまったのである。 「次の攻撃は?」 「ありません」  との答えが返って来たとき、“絶対貴族”の顔を、はじめて不審の色がかすめた。 「攻めて来ぬか——それは」  指揮所のドアが炎を上げて倒れたのは、その刹那であった。  駆け込んできた数個の人影は、あっという間に、ヴァルキュアの護衛や兵士を倒し、レーザー・ガンの銃口と刀身とで、指揮所を制圧した。 「こしゃくな」  とスーの方をふり返り、ヴァルキュアは今度こそ低く呻いた。 「——D!?」  スーを背後に庇って、黒衣の美影身は静かに声をかけた。 「採点はどうだ?」  氷のような、それでいて、どこか愉しげとも聞こえる声であった。 「一個師団を与えられながら、ゲリラ戦で来おったか——よかろう、満点引く一だ」  嗄れ声が笑った。 「一点は、大将自ら、無謀な攻撃に加わったこと。そして、わしに出会ってしまったことだ。将を失った兵士に何ができる。Dよ、これですべてがチャラになるとは思っていまいな?」 「もとより、だ」 「では——わしの相手をせい。この戦場の平原はここ五千年来、兵士のどよめきも絶えて、実は少々、無念ではあったのだ」 「よかろう」  Dがその場で刀身を収めた。隊員たちがどよめいた。 「兵たちに戦場から撤退するよう命じろ。二度と射ち合いも斬り合いも許さん、とな。それから、この娘はどちらが勝っても送り返せ」 「いいだろう」  ヴァルキュアは、むしろ嬉々として従った。  数分後、二人は広大な平原ともいうべき戦場の一角で対峙した。 「やり合う前に訊いておこう」  とヴァルキュアは言った。 「どうやって司令部を急襲できた?」  これこそ、ヴァルキュアにとって最大の謎であったに違いない。 「おまえの戦車のエンジンとその他の部品を外して、無音ヘリを製作した」 「ほお。しかし、よくも改造が可能だったものよ。あれは不可能な設計のはずだが」 「自ら造った工兵の実力を知らぬのか」  ヴァルキュアは、のけぞって笑った。声は建物を震撼させた。 「そういえば、自らのこの領土について、わしは何も知らぬのだな。ふむ。兵は何人おるのか、何を食らい、それはどこから供給されるのか、何も知らぬ。そういえば、物を考えなくなって随分と経ったような気もする。一千万の兵がおれば、一千万を殺しても勝つ戦いしか思いつかなんだ」  Dのように、わずか十名で司令部の中枢を襲うとは、“絶対貴族”の思慮の外だったのか。 「山を動かし、星の動きを変えても、うまく歩けぬ酔いどれのようなものだな。だが、ただひとりの相手なら、斬り伏せられるかも知れぬ」 “グレンキャリバー”が鞘鳴りの音をたてた。同時にDも一刀を抜きつれた。  月の光が刀身に吸い取られたかのようであった。  どちらからともなく走った。  二つの影がひとつに溶けた瞬間、赤い火花が散って、双方、位置を変えた。 「ほう」  と嗄れ声が流れた。Dの額から黒い糸が流れ、鼻のつけ根で網の目のように広がった。 「ひとたび抜けば、“グレンキャリバー”——血を見ずには収まらぬ」  ヴァルキュアの声が終わらぬうちに、Dの刃が舞った。  黒い津波が打ち寄せるような秘太刀に、ヴァルキュアは何とか跳ね上げたものの、大きく姿勢を崩した。  宙に浮いた太刀に拘泥せず、Dはその胸もとへ飛び込むなり、左手の小刀を“絶対貴族”の心臓へ突き立てた。  刃はヴァルキュアのガウン下の装甲を貫き、呪われた心臓へ達した。 「おのれ」  呻きつつふり下ろした“グレンキャリバー”を、Dの太刀が受け止め、小刀の刃はさらに深々と心臓をえぐった。  天と地が青くかがやいた。月夜に落雷が生じたのだ。それはDに非ず“グレンキャリバー”の刀身に落ちて、Dをも電磁波の炎で灼いた。  黒煙と炎とを噴きつつ、二人は離れた。  その寸前、“グレンキャリバー”が、ヴァルキュアも意図しない動きを見せて、Dの右肩を割った。  黒血が奔騰《ほんとう》した。  魔性の剣は、なおもDへ新たな一撃を加えようとふりかぶられたが、空しく地に落ちた。ヴァルキュアが倒れたのである。  四方から人影が押し寄せ、ヴァルキュアを運び去ると同時に、Dへと殺到した。  手に手に刀身が光っている。  だが、その身体がDを包む前に、横合いから躍り出た別の人影が、これは白刃とレーザー・ビームを閃かせてヴァルキュアの配下を蹴散らし、Dをも連れ去った。  Dはしかし、救助者たちの手は借りずに歩いた。  半顔と右半身は黒血にまみれてはいるものの、左手に持ち替えた一刀をふるえば、ヴァルキュアの手下ごときはことごとく首と胴とが生き別れの運命を辿っていたであろう。  救助者たちにもそれはわかるらしく、あえてDに肩を貸そうとするものもない。  彼らはDを地下へと導き、高速移動器に乗せた。ゴンドラに似たそれは、時速数百キロで、領土の中心を走り廻るのであった。  半数をプラットフォームに残し、五人が同乗した。 「どこへ行く?」  とDが訊いた。 「医療部へお連れします」  と、ひとりが答えた。彼らはDが同道した、もと[#「もと」に傍点]ヴァルキュア兵であった。 「ここはヴァルキュアの城だ。すぐに追手がかかるぞ。治療はコンピュータの担当だ」 「マニュアルに切り替えれば、血止めと殺菌、縫合くらいは我々で」 「この傷はふさがらんよ」  嗄れ声が、兵たちを驚かせた。 「“グレンキャリバー”さすがは“絶対貴族”の愛刀だの。いくら止めても出血はそのままだ。これは荒療治が必要だぞ」 「ほう、左手がしゃべりますか」  と別のひとりが眉を寄せて、しげしげと眺め、 「何を見ておる、金を取るぞ」  と噛みつかれて、眼をぱちくりさせた。 「へっぽこ医療部などよりも、ましなところがある。まず、エネルギー炉へ急げ」  巨大なドアの前で、一同は足を止めた。 「この先が反陽子炉です」  Dはうなずいた。 「おまえたちは戻れ」 「防御機構が働いております。いまのお身体では危険です。お供させて下さい」 「ほう、なぜじゃ?」  とDの声がひどく嗄れた。 「おまえたち、奇襲を終えたら原隊へ復帰せよとの指令を与えておいたはずだぞ。なぜ戻らぬ」 「我々は死を覚悟しておりました」  と最初のひとりが言った。 「造られた生命とはいえ、やはり、死は怖いものでございます。また、仲間が斃れれば、哀悼の気も湧きまする」 「それでも、死ぬために生まれてきたと自らに言い聞かせ、あなた様のもとへと馳せ参じました」  と三人目が言った。 「ですが、あなたは誰も死なせませんでした。わずか十名で、ヴァルキュア様の不意を衝き、勝敗を決せられるとは——あれは、天成の将器の持ち主だけが可能にする技でございます」 「あなた様に救われた生命——あなた様のためにお捧げしようとここへ参りました。死にたくないと願っていた者たちが、この方のためになら捨てると決めた生命——なにとぞ、お受け下さいませ」 「ならん」  Dは静かに、しかし、風刃の鋭さをこめて言った。その顔は白蝋のごとく、出血はなおもつづいている。 「おれが奪《と》るべき生命ならこの場で貰う。そうでなければ大事にしろ」  これだけ言って、黒衣の若者はコートを翻した。  天井と壁の粒子砲が音もなくDの方を向いて沈黙した。  Dは無言で炉の入口へと向かった。  立ち尽くす男たちの耳に、誰かが吟じる古代の詩がゆれた。  風は蕭々として  易水《えきすい》寒し  壮士ひとたび去って  復《ま》た還らず  どのような技を使ったのか、左手を押し当てただけで通路を開き、白い光の中に消えていく後ろ姿を見送りながら、男たちは凝然と立ち尽くしていた。    2  炉——といっても、“絶対貴族”のエネルギーは、核分裂、核融合ともに採用してはいない。領土の生命を維持するためのエネルギーは、すべて反陽子と陽子の接触によって得られる。  ヴァルキュアの炉は、この、現界のいかなる種類のエネルギーをも凌駕する高純度エネルギー生成のため、極めて微妙な両陽子の結合を、それこそ悪魔のごとき細心さをもって行っているのだった。 「これはちと厄介だぞ、Dよ」  珍しく、左手が宿主の名を呼んだ。緊張の証しである。 「反陽子と陽子の結合は、コンピュータにとっても最大の難物だ。わずかでも漏出すれば、その微妙なバランスを破壊しかねない。待つのは炉の暴走《スタンピード》だ。いったん炉の外に出れば、空気分子からして、反陽子を燃えたぎらせる結婚相手は無尽蔵にある。ヴァルキュアの領土のみならず、この星さえ、否、反陽子の生成がつづく限り、この宇宙さえ消滅しかねんぞ」 「他に手はあるか?」  Dは静かに訊いた。 「ない」  左手は、手のひらに生じた小さな眼でDの足下を眺めた。  光る床の上に鮮血の道がつづいている。本来なら、出血多量で失神、死亡していてもおかしくない状況なのだ。 「やってみるしかないな。しかも、もうひとつ問題が存在する」 「土か?」 「そのとおりだ。地水火風のうちの土、これが存在しないのだ」  左手の声に、苦渋が滲んだ。 「四大元素のうち、最も主要なエレメントは土と水だ。風と火をいかに大量に取り込もうと、他の二つなくしては、純粋なエネルギーは抽出できん。いや、通常の場合なら、他の三つで補うことも十分に可能だが、今回の傷は違う。“絶対貴族”ヴァルキュアのつけた傷じゃ。完治には地のエレメントが欠かせぬよ」 「やってみろ」  Dはにべもなく言った。生と死に拘泥せず、しかし、決してあきらめてはいない鉄の意志が、そこにはこめられていた。 「よかろう」  Dは左手を炉の壁面に当てた。 「よし」  と嗄れ声が応じた。  Dの右手が柄《つか》にかかる——と見えた瞬間、剣は逆手に握られ、深々と左手の甲から炉面を貫通していた。  刀は戻された。  灼熱の超エネルギーは、すでに刀身の穿った亀裂から漏出しつつある。  だが、警報は鳴り響かず、緊急ランプの点滅もない。そして、左手は亀裂を押さえつづけている。  一分——  二分—— 「よし」  嗄れ声が告げた。  恐るべき瞬間がやって来た。Dのつけた傷をふさがねばならない。 「わかっておるな?」  念を押すような声にも答えず、Dは甲の裂けた左手を見つめた。  それも一瞬。白刃が躍り、ふたたび手の甲を貫いた。寸分違わぬ同じ位置を。 「よし」  声と同時にDは刀身を引き抜いた。  一度目は流出、二度目は封入——どのような技が駆使されたものか。左手が外れても、灼熱の漏出はなかった。傷ひとつない炉の壁面が鈍いかがやきだけを放っていた。 「火はオーケイじゃ。水へ行け」  Dは左手を肩口へ押しつけた。溢れ出る血がどこへ行ったかはいうまでもあるまい。  左手の合図でそれを離すと、彼はその手を高く掲げた。  ごおごおと小さな口が空気を吸い込みはじめる。静謐な空気に風が招かれた。  小さな口腔の奥に、青い炎が点った。 「どうじゃ?」  と、その口が訊いた。 「変わらんな」  とD。 「やはり——か。地のエレメントなしでは、この傷はふさがらん。ふむ」  Dは外へ出た。  人影が待っていた。 「行けと言ったぞ」  Dは兵士たちに告げた。 「——侵入を悟られました」  と、ひとりが言った。 「わかっておる」  と嗄れ声が応じた。  Dは無言で兵士たちを見つめた。  炉心への侵入に気づかれたとき——ヴァルキュアの攻撃をしのいでDの目的を成就させる。男たちはそのために待っていたのだった。  廊下の左右から複製の足音が近づいてきた。 「追いつめられたの」  と左手が、うんざりしたように言った。 「あの数では、脱出に手間がかかる。おまけにこの身体ではな。どこぞやに土の一塊《ひとくれ》でもあれば、さして難儀でもあるまいに」  男たちが顔を見合わせ、それからDを見つめた。 「土、とおっしゃいましたか?」 「言った」  とD。 「それなら、もっと早くお伝え下さるべきでした」  一斉にうなずくや、ひとりが腰のサーベルを抜き、止める間もあらばこそ、我と我が心臓を刺し貫いたのである。  どっと倒れた身体は、衣裳を残してみるみる一塊の土くれに変わった。 「汝、塵なれば塵に還れ。《ダスト・ザウ・アートダスト・リターネスト》——我らは粘土から造られた人工生命体《ホムンクルス》でございます」  と、ひとりが誇らしげに言った。 「これでやっとお役に立てる。神に感謝せねば。——心からご健闘を」  そして、一斉にその胸を刺し貫いてDの足下に、真の姿をさらしたのであった。  勇士たちの亡骸《なきがら》をDは凝然と見つめた。  嗄れ声が言った。 「名も知らなんだな」 「生命は忘れん」  床に片膝をついて、土くれに左手をかざすDの姿は、見るものが思わず立ち止まり瞑目《めいもく》するほど荘厳に見えた。 「反陽子炉Aのガードロイドは全滅。百体すべてが破壊されました」  電子音声の連絡を、ヴァルキュアは柩の中で聞いた。城外に黎明が水のように広がっていることは、貴族の五感が伝えてくる。  身体が急速に冷えていく。内部は血臭に満たされていく。衣服を通して、生あたたかい染みが感じられる。柩の床には数センチも血が溜まっているのだ。——彼の血が。Dに受けた傷口は、柩内部に印刷《プリント》された「医療施設」でも手の施しようがなく、出血はなおもつづいているのだった。 「おまえがいなければ、一敗地にまみれたままであったな、“グレンキャリバー”よ」  彼は左脇に並べた愛刀へ話しかけた。 「だが、おまえができるのは、断つことのみだ。わしの傷をふさぐには、別の手立てが必要よ。娘、聞いておるか?」  彼は右の方を向いた。  スーの白い顔があった。  Dとヴァルキュアが相討ちに終わったとき、彼女は絶対貴族の部下に拉致されていたのだった。 「皮肉なことに、わしの治療ができる者は、この世にひとりしかおらん」  彼はその手でスーの顔を撫でた。思ったよりずっと柔らかい、繊細な手であった。 「そして、彼を動かせるのは、おまえしかおらんのだ。娘よ、いま、こう口にせい。あなたの顔を持つもうひとりの男を捕えて、大公様のもとへお連れ下さい——D様、と」 「聞こえるか、ブロージュ?」 「聞こえるか、ミランダ?」  すでに貴族の眠りに入った二人の脳に、その声は直接響いてきた。 「わしはヴァルキュア大公だ。多くは言うまい。いま、わしは傷を負っている。このわしの生命を奪いかねぬほどの傷だ。そこで治療を施すことにした。と言っても、わしには為す術がない。そこで、唯一最高の医師の力を借りることにした。わしの国の住人ではないが、彼は喜んで申し出を受けたぞ、その名は——」  ————  闇の中でブロージュ伯爵の双眸が開いた。瞳は紅く燃えていた。 「聞いたな、ミランダ?」  と言った。彼は柩に、ミランダは客用の柩に入って同じ寝室にいる。 「確かに」  眠たげなミランダの応答だが、ただの睡眠不足でないことは、ブロージュも先刻承知だ。大量出血のもたらす衰弱であった。 「まさか、あの男が。いや、いかに最高のハンターとて、相手は“絶対貴族”だ。その富、その力の一部でも分けてやろうと申し込まれたら、鉄の精神も揺らぐだろう。あり得ぬことではあるまい」 「愚かなことを」  ミランダは吐き捨て、嘲笑した。 「男というものは、存外に男を知らぬものよ。あの男がどれほどの器か理解しておらなんだか。あれは肉体も精神も鋼よ。ヴァルキュアの篭絡に乗るくらいなら、自ら生命を絶つであろう。否、決して篭絡などされぬ。私にはわかる。女の私には」 「女に男がわかるものか」  とブロージュも吐き捨てた。 「とにかく、日が暮れ次第、わしはDを捜して真偽を確かめる。邪魔をするでないぞ、ミランダよ」  二人の会話はここで絶えた。  Dが治療を請け合った云々は、無論、ヴァルキュアが二人に流した謀略だ。少しでもDの立場を危うくし、ブロージュと戦わせ、どちらが斃れても重畳《ちょうじょう》、残ればそれは彼自身が手を下す。単純だが、武人の塊のようなブロージュには効果的である。  次は何が起こるのか。  様々な想いと思惑とを秘めて陽は昇り、そして、暮れた。    3  闇の中を、それこそ闇雲に突っ走ってきた巨大な騎馬が、鮮やかな手綱さばきを見せて、急停止した。蹄鉄と地面がこすれて火花を生む。  しかし、何たる馬か。  地面から肩まで優に三メートル、首のつけ根から尾までは六メートルもある。  こんな馬にまたがって、 「——Dめ、どこにおる?」  と雷鳴のような声を放った男の正体は、言わずもがなだ。  その右手で、びゅん、と長槍が唸った——とくれば威勢がいいが、声といい長槍の回転ぶりといい、以前に比べ、明らかに精彩を欠いている。  ケープで隠した腹部からしたたる血潮は、いまや鞍を染め、馬体を濡らしている。  ブロージュ伯の目的はDの捜索だ。それしかない。  豪放磊落《ごうほうらいらく》を絵に描いたようなこの貴族には、あの男に限ってと思いながらも、Dがヴァルキュアの治療を承知したというヴァルキュア自身の言葉が、灼きついて離れないのだった。  しかし、Dの居場所も知らず、敵の領土のど真ん中へ乗り入れるのは無茶だ。それほどにこの貴族は直情径行なのであり、怒りは深いのであった。  自走車を離れてすでに三時間、走りに走り、気がつくと、周囲は霧らしきものに白く閉ざされていた。 「何だ、これは? 霧ではなさそうだが」  構わず進んだ。こうと決めたら、この大貴族を止められる者は誰もいない。  霧の向うに忽然と、崩壊した建造物らしいものが現われた。  馬上から夜目を凝らすと、霧状の物質はその瓦礫の奥から噴きつけてくるらしい。 「“絶対貴族”の創造物も倒壊するか」  我知らず、述懐の口調でつぶやき、右方へ眼を向けたとき、意外と近くまで迫っていたらしい人影が、隠していた霧のベールから姿を現わしたところだった。  その顔はまさしくD。  あるものを訝しみはしたものの、伯爵の思考を決したのは、Dにしかあり得ないその美貌であった。 「Dよ——ここで何をしておった?」  彼は長槍を突きつけて問うた。有無を言わさぬ詰問ぶりである。  相手は答えない。茫として彼を見上げたまま突っ立っている。  その虚ろな眼差しに、異常の風を感知したものの、ブロージュはこうつづけた。 「ヴァルキュアの治療を引き受けたそうだが——本当か?」 「………」 「否定せぬ以上、肯定とみなす。——何故だ?」 「………」 「答えぬ以上、裏切り者として処断する。——承知だな?」 「………」  伯爵のこめかみに、太い虫のような血管が蠢いた。  ふん、と放つや、後ろ立ちになった馬が前足をつく——その動きに合わせて繰り出される長槍。  逃げる暇もなくDの胸を貫いた。 「おお!」  と呻いたのは、しかし、ブロージュだ。  槍はDの左腕の下に、ぴたりとはさみ込まれているではないか。 「おのれ——糞お」  罵りながらも、そこはブロージュ伯爵。ぐん、と槍ごとDの身体を持ち上げるや、後方へ凄まじいしなりとともに投げとばした。  瓦礫の山に激突し、たちまち落下した岩やらコンクリート塊に埋まってしまう。 「呆気ない。しかし、いくら何でも」  言い終えず、吐気を放ちつつ、ブロージュは跳んできたコンクリ塊を打ち落とした。  痺れが肩から首に伝わる。石の大きさもそうだが、伯爵も傷んでいるのだ。  もうひとつ。これは串刺しになった。  瓦礫を押しのけ現われたDめがけて、それを放る。  Dが払った。五トンもある大石は、実にたやすく左方へ跳んで、すぐ闇に見えなくなった。遠くで、どしんというような音が響いた。  馬首を巡らし、そちらへ走る。  いない。  その身体が馬ごと浮いた。  悲鳴を上げる暇もなく投げ出され、空中で一回転して着地を決めた右方で、サイボーグ馬が分解した。 「貴様——やはり」  とのばした槍の穂先を少しも構わず、Dは歩み寄ってくる。 「おおおおお」  音を殺して走りつつ、その首すじへ長槍を横殴りに叩き込む。  凄まじい衝撃に脳まで痺れ、開いた眼の中を、左手を受けの形に上げたDが、真っしぐらに突進してきた。右手にねじ曲がった金属片が光る。  それが、体勢を崩した顔面へ、びゅっと打ち下ろされた瞬間、さしもの伯爵も、うわっと絶叫した。  世にも美しい音がした。  伯爵は見た。  ふり下ろされた小剣のような金属片に、がっきと噛み合った刀身を。  救い主へ反射的に眼差しを送り、 「——D!?」  と伯爵は驚愕した。 「人違いだったらしいな」  黒衣のDが、伯爵も訝しんだ銀色のDへ一瞥を与えて、 「捜したぞ。おれと戦うのもおかしな話だ。できれば、別の顔になれ」  と告げた。  すっと金属片が引かれた。 「おれ……か」  と銀色のDが抑揚のない声で言った。 「おれはここで何をしている? おまえは何者だ?」 「わからん」  Dは答えて、 「わかっているのはひとつ、おまえに用のある男がいる。一緒に来てもらおう」 「——わかった」  抗いもせず、銀の男は金属片を捨てた。Dも刀身を収めた。  馬上から、 「どうする?」  と声をかけた相手は、ブロージュ伯爵だ。 「どうもこうもない。馬をつぶされた以上、おまえと同道するしかあるまい。だが、こうなってみると——ヴァルキュアの治療を承知したDというのは、どっちだ?」 「行くぞ」  こう言って、銀色の自分とブロージュを引きつれ、Dは前進を開始した。 「奴の城までどれくらいかかる?」  とブロージュが訊いた。 「明日の昼過ぎには着くだろう」 「なに!?」 「嫌なら、早く歩け。走ってもいいぞ」  怒りと戦慄のあまり、最後の台詞がひどく嗄れていたことに、伯爵は気がつかなかった。  幸い、走る必要はなかった。  三時間ほど歩いたところで、自走車とミランダ公爵夫人に遭遇したのである。 「待っていろと言ったのに」  素直に喜ばない車の主人を、 「可愛げのない男」  と公爵夫人は切り捨てた。  もはや、スーもマシューも敵の手に落ち、二名の貴族と二人の添乗者は真っしぐらに夜の平原を突き進んでいく。  兄妹を助けるためか、自らの思惑を果たすためか。月光は血の予感を孕んで冴えた。  やがて、それまでとは趣きが違う大建造物が道の左右を埋めはじめた。  かつて、これらを眼にした二人の男がいたことを、一同は知らぬ。  道の端に、二体分の白骨が転がっていた。馬上のDがそれを眼に止め、無言で通り過ぎた。 「いよいよだな。腕が鳴るわ」  とブロージュが後ろの公爵夫人に話しかけ、返事がないので、 「なあ?」  とふり向いて、 「おらん」  ぼそりと言った。あの美女の神出鬼没ぶりは誰もが知るところだ。  やがて、巨大な鋼の門が開いて、Dと自走車を迎え入れた。  道は平原のように果ての見えない前庭を通って、奇怪な形をした城の玄関に近づいた。  無数の人影が整然と出迎えた。白いドレスの女たちと黒い礼装の男たち。  Dとブロージュ伯爵が地上へ下り立つと、彼らは一斉に頭を下げ、 「ヴァルキュア公のために」  と斉唱した。  外見は人間そのものだが、アンドロイドなのは一目瞭然であった。 「大層な歓迎だな」  とブロージュは満足そうに鼻を鳴らした。  百人近い男女に周囲を守られ、三人は絢爛豪華というしかないホールに導かれた。  小さな船ほどもありそうな差し渡しの黄金のシャンデリアの下に長椅子が置かれ、ヴァルキュアが横たわっていた。 「たいしたものじゃな」  とDの左手のあたりで嗄れ声が感嘆した。  宝石がちりばめられた室内の豪華さではない。刺客の前に傷つけた身を平然とさらすヴァルキュアの度胸にだ。 「ひとり足りぬな」  これがヴァルキュアの第一声であった。 「放浪癖のある女でな」  とブロージュが返した。 「今頃はおぬしの寝首を掻こうと、シーツにでも化けておるぞ」 「——いつ治療した、Dよ?」  ヴァルキュアは伯爵を無視して訊いた。  返事はない。 「まあ、よかろう。そ奴が見つかって重畳——さあ、引き渡してもらおうか?」 「娘と兄が先だ」 「なに?」 「嫌ならば、彼をこの場で斬る」  Dは左手で若者の腕を取った。  ヴァルキュアは頭を掻いた。 「これは困った。渡さねば、あの二人を殺すと言ったら?」 「おまえも死ぬ」  Dの返事はにべもない。  ヴァルキュアは苦笑した。 「よかろう。とりあえず、無事な姿だけは見せてやる。連れて来い」  この指示が出て五分としないうちに、スーがガードロイドに囲まれてやって来た。 「——D!?」  と走り寄るのを制止するものもいない。この辺は鷹揚なところだ。 「兄貴はどうした?」  とブロージュが訊いた。 「——逃げた」  とヴァルキュア。 「なに?」 「ついさっきまではいた。監視装置に侵入者の姿はない。だが、兄が、見えないものとの会話をつづけているところは映っておる」 「ははあん」  とブロージュが低く洩らした。 「とりあえず、そのひとりで我慢せい」  とヴァルキュアは言った。 「すべては、わしの治療が済んでから。おまえたちの運命もそれから、だ」 [#改ページ] 第七章 絶対貴族    1  誰もが血を浴びているように見える。その眼が血光を放っている風だ。ヴァルキュアもブロージュも臣下たちも。その中で凛たる清涼さを漲らせているのはDひとりであった。 「まずは、その男を渡せ」  ヴァルキュアが片手をのばしてきた。 「渡せぬな」  とDが背後にスーを庇った。 「ほう」 「兄と妹、二人揃ってから、治療を受けるがいい」  見えない視線が空中で、これも見えない火花を散らした。  下僕たちが硬直する。アンドロイドでさえ機能不全に陥らせてしまう二人の殺気であった。 「その前に訊きたいことがある」  とブロージュ伯が右手を上げた。 「何かな?」  これもヴァルキュアだ。 「その男——何者だ? なぜ、Dの顔を持っておる?」 「神祖とやらから預かっているものよ。わしの最大の危難が訪れたら出せと言われていた。Dの顔は、他の誰より見栄えがするのかも知れん」 「誰よりも?」  と男の方を向いて顔を歪め、 「他にもあるというのか?」 「ある」  嗄れ声だ。ブロージュは妙な表情でDの左手を眺めた。 「あとふたつ。ヴァルキュアと——」  あっ、とスーが息を引いた。“絶対貴族”の名前が出た途端、Dの顔がヴァルキュアのそれに変わったのだ。あたかも、男が体内に眠る新しい人格に気づいたかのように。  長槍を構えるブロージュの表情も、剣呑というより呆気に取られた色が濃い。いきなり二人だ。無理もない。 「何だ、こいつは?」 「ヴァル……キュアだ」  と、そいつは気だるげに応じた。 「待っておれ……いま、治して……やる」  こう告げた相手は当然、本物のヴァルキュアだが、冷たいことに、当人はブロージュ伯と同じ眼で自分の顔を持つ男を眺めていた。 「おまえは——誰だ?」  Dでもブロージュでも嗄れ声でも、或いはスーが放ってもおかしくない質問だったが、その主はヴァルキュアであった。  そいつ[#「そいつ」に傍点]は、質問の意味が呑み込めないみたいに、ぼんやりと立っていたが、軽く頭を左右にゆらして、 「ヴァルキュアだ」  今度ははっきりした声で言った。 「わしは、おまえだ。従って、その傷を治さずにはおれん。見せてみろ」  こう言って、一歩前へ出ようとしたその背から胸もとへ、ずん、と長大な槍の穂が貫き通った。  風にゆれる草の葉みたいにざわめいたのは、ヴァルキュアの従者とスーばかりで、刺された当人もDもヴァルキュアも声ひとつ上げずにいるのは、異様な光景であった。 「もうひとり“絶対貴族”などいられては厄介の極みだ」  ブロージュは槍の穂を左右にねじりながら言った。ヴァルキュア2ともいうべき怪人が、血一滴流さず苦痛の色ひとつ浮かべていないのも意に介さぬようだ。 「だが、こんな真似をしても無駄なのは先刻承知だ。こうしたらどうかな?」  腕のひと捻りで引き抜いた槍を、ヴァルキュアは真横にふった。  長さ三メートルの穂は、重く鋭い鉈《なた》に変わった。  首の切断音は、常人と同じだった。 「ほほう」  ブロージュは感じ入ったように長槍を構え直した。  ヴァルキュア2の首は飛ばなかった。両断された刹那、彼の手が上から押さえたのである。ブロージュも、こうやって“グレンキャリバー”の一撃から自分を守ったのだ。  切断痕は瞬く間に消えた。 「これは困った。四つ裂き八つ裂きにしても同じことか。ふむ、煮ても焼いても死なぬだろうな」  ブロージュは槍の柄で鼻の脇を掻いた。 「Dよ。こ奴はおまえと同じ顔もつけておる。何とかせい」  何とかせいと言われても、Dも困るだろうが、確かに無関係ともいえまい。 「ヴァルキュアが二人。おれが二人。ヴァルキュアがおれで、おれがヴァルキュアか」  謎めいた若者の謎めいた言辞に、スーがはっと彼を見上げ、たちまち頬を染めた。 「それでは足りぬな」  地の底から響くような“絶対貴族”の声であった。 「いまひとり、おる。Dよ——“御神祖”はなぜ、こ奴をわしに託されたのか、おまえ、知っておるのではないか?」 「なぜ、そう思う?」 「いま、おまえ自身が口にしたではないか。おれはおまえだ、と。そうして、口にせず口にしたではないか。“御神祖”はおれ[#「おれ」に傍点]だ、と」  スーはよろめいた。ヴァルキュアの言葉が頭の中で眼をつぶさんばかりに激しく明滅した。 “御神祖”はおれ[#「おれ」に傍点]だ。  おれ[#「おれ」に傍点]とは、誰のことだ? ヴァルキュアか、それとも—— 「治療しろ」  とDが言った。 「おい」  とブロージュは異議を唱えたが、 「スーとマシューは貰う。その代償だ」 「来い——治せ」  ヴァルキュアの誘いに導かれるかのように、彼の顔を持つ魔人は本物のそばに近づき、胸の傷に手を当てた。  ヴァルキュアがヴァルキュアの治療を行う——奇妙とも奇怪ともいえる光景に、笑う者も怯える者もない。  そして、全員が意外な言葉を聞いた。 「治せぬな」 「なに?」  とヴァルキュアが眉をひそめ、ブロージュ伯がにんまりと唇を歪めた。 「この傷をつけたのは、わしと等しい技倆《ぎりょう》の主だ。肉と骨のみならず、生命の源も断っておる。鬼神といえども手の施しようがあるまい」  伯爵が哄笑した。ヴァルキュアによるヴァルキュアに対する治療不能の宣告である。確かにおかしなユーモアがあるのは否めない。 「では——どうする? Dなら治せるのか?」  とヴァルキュアが、苦り切った声で訊いた。詰問に近い。 「奴もわしと同じ。治せぬな」 「ならば——?」 「もうひとり——彼ならば」  変哲もない答えに、スーはなぜか背すじが凍った。 「では、出せ」 「わしの自由にはならん。彼にもどうすればいいかわかるまい」 「えーい、もうひとりだの、自由にならんだの何のことだ。Dよ、もう待たんぞ。ヴァルキュアはここに横になっておる。絶好のチャンスだ。わしは彼奴を始末する」 「よさんか、こら」  と嗄れ声が止めたのも思慮の外——大長槍をひとふりするや、電光の速さでヴァルキュアへ突き出した。  その穂先を下方から銀の光が跳ねとばし、伯爵は、 「何をする!?」  火を噴く眼でDをにらみつけた。 「彼は代償を得る」  とDは答えた。 「貴様——」  憤怒の形相、いや、狂槍。伯爵はDめがけて長槍をふった。  刀身を縦にかざして受けたDの肩まで、凄まじい衝撃が走った。  跳躍しざま、Dの一刀が青い弧を描く。  槍ごと頭まで両断しそうな一撃をかろうじて受けるや、ブロージュは長槍を地面へ、拝み討ちに叩きつけた。  広間がゆらいだ。スーが悲鳴を上げた。  落下する天井の一部とともに着地したDの足下に、太い亀裂が走った。それを避けて踏みつけた床の大理石が砕けて、Dの姿勢を大きく狂わせた。  胸もとへと走る長槍の仮借なき一閃を、かろうじて跳ねのけながらも、Dは攻撃の姿勢を取ることができなかった。  その余裕を与えてなるかと、ブロージュの突きが連続する。  かわし、受け、Dの両足は安定と不安定とに苛まれつつ床面を滑走する。不動の足場を得た途端、その胸を長槍が貫くのだろう。  足が止まった。  ブロージュが槍を引く。運命の瞬間を、スーはスローモーションで網膜に灼きつけた。  生と死の動きが、ぴたりと止まった。  二人が同時にこちらを向く。スーもその視線を追った。  銀色の衣裳をまとった、見も知らぬ男が立っていた。  ただそこにいる。それだけで、Dとブロージュ伯との死闘に終止符を打たせた男であった。 「“御神祖”さま」  誰が放った言葉ともわからず、スーはその響きが生み出す感情に身をまかせた。  灼熱が脳を灼き、極寒が内臓を凍らせる。思考は千々に乱れ、かろうじて凝縮しかけては拡散した。ただのひとことで。 「もうひとりとは——この御方のことか……」  ブロージュ伯爵の口調は、敬虔とすらいえた。 「……ならば、何事も可能だ。ヴァルキュアを救うことも」 「あなた……様、は」  ヴァルキュアの声も虚ろであった。彼は“様”と言った。そうしなければいられない、自らを大宇宙へ放逐した宿敵であった。  大宇宙に巨大な星雲が誕生し、恒星たちを吸収しようとしている——それに似ていた。  何処からともなく、霧のようなものが室内を泳ぎはじめた。 「アカシア記録《レコード》の断片だ」  と、“神祖”が言った。 「わしですら容易には解読できぬあれを、見事に覗いた者がおる。だが、見てはならぬものは、やはり見てはならぬのだ。その禁忌に触れたため、その者の存在は歴史から消滅した。そして見よ、アカシア記録は保管庫から流出し、宇宙は宇宙たることをやめてしまうに違いない。時空間に刻まれた歴史が消えていく。歴史とは時間からできているからだ」  このとき、すでにキマという男の存在は、ヴァルキュアの脳裡から喪失していた。いや、彼を知るすべての生命体の記憶からも。 「何たることだ」  とブロージュ伯が血相を変えた。 「いかん」  とヴァルキュアも拳を握りしめた。 「どうすればいいのです、“御神祖”よ?」  ブロージュの問いである。 「おまえにはできぬ」 「はあ」 「かといって、ヴァルキュアにも無理であろう。この中で可能性があるのはDと呼ばれる男のみ。しかし、その力はわしにも把握できておらん。ヴァルキュアよ——Dと同じ力が欲しいか?」 「………」 「Dはおまえと戦い、おまえから受けた傷も治療してのけた。だが、おまえはもはや滅びるしかない。その時点で、おまえはDに敗れたのだ」  聞くものの精神を、暗い奈落へ引きずり込みそうな声——これが“神祖”の声か。  だが、ヴァルキュアは低く笑った。 「わしが敗北? 敗北とは、この身を塵にする者を遺して、わしが散ったときのことだ。決着はまだついておらん。わしもDも呼吸をしておるわ」 “神祖”の右手が、空中から何かを掴み取るような動きを見せた。  それは一塊の霧であった。  ちらと眼を走らせ、“神祖”は言った。 「ここに記されておる。おまえの敗北がはっきり、と」    2 「莫迦な」  それでも“絶対貴族”の自信は揺るがぬようであった。 「わしは信じぬよ。この足で立っている限りは」 「アカシア記録の宣言は運命《さだめ》そのものだ」  と“神祖”は言った。 「運命を覆すことは、誰にもできん。唯ひとつの手段を除いては、な」  ヴァルキュアの眼が一瞬、凄まじい光を放った。 「ほう……それは?」  訊いたのは嗄れ声であった。 「アカシア記録を書き換えるのだ」 “神祖”はためらいもせずに言った。 「書き換える? ——アカシア記録をか!?」  嗄れ声、ブロージュ、ヴァルキュア——三者の叫びはひとつに聞こえた。 「しかし……そんなことができるのは……?」  視線は“神祖”の顔に集中した。 「わしだけだ。だが、おまえにもできるぞ、ヴァルキュア——わしがこうすれば、な」  いつ、彼がヴァルキュアのそばへ行ったのかはわからない。或いは、ヴァルキュア自身が、我知らず近づいたのかも知れなかった。  どちらからともなく、二つの身体が重なった。 「おお!?」  ブロージュの叫びは、凄まじい驚きと絶望を奏でていた。 “神祖”の身体が、すうとヴァルキュアの内側へ吸収されてしまったのだ。 「ヴァルキュアめ——“神祖”の力を得るぞ!?」  嗄れ声に反応したのはブロージュ伯であった。  長槍が躍った。その身体を真紅の光条が貫いた。  同室したヴァルキュアの召使いたちが放ったビーム砲の集中砲火は、ことごとく伯爵の皮膚と衣類に吸収されてしまった。  なおも放たれる攻撃に、ブロージュの長槍が弧を描いた。  光が逆進した。  それに貫かれた召使いたちは、みるみるイオンと無に変わった。  死の光条は、すべてブロージュ伯の槍の穂に反射し送り返されたのである。 「いま斃さねば」  それは血を吐くような決意の表現であった。奇怪な一体化のもたらすものを、伯爵も理解しているのだ。  彼は長槍を投擲の形に持ち直した。手をのばせば十分に届く距離だが、そうせずにはいられなかった。  ヴァルキュアの右手が拳の形で上がった。  胸前で彼は手を開いた。直径五センチにも満たない真紅の球体がそこに浮かんでいた。  長槍が飛んだ。  ヴァルキュアの心臓を貫くはずのそれは、球体に命中した。  と、見る間に、六メートルの大長槍は、スピードを落とさず、紅い球に呑み込まれてしまったのである。 「“神祖”の——いや、わしの血の球だ」  ヴァルキュアの声は妖々と告げた。腹の傷からの出血は途絶えていた。 「過ぎし時、“神祖”とわしは永劫の敵であった。その理由をおまえたちは知るまい。わしは単なる血に飢えた悪鬼だったのではない。すべては“神祖”に対する反抗だったのだ——と言っても信じはされまいなあ」  双眸がDを見、ブロージュを貫いた。それ以前のヴァルキュアのものではなかった。 「わしは——」  言いかけて、彼は眼を細めた。  それは、ブロージュの背後、奥の戸口に集中していた。  ブロージュはふり向いた。  二つの影がそこに立っていた。 「ミランダか」  と彼は懐かしそうに言い、 「マシュー!?」  とスーが声をふり絞った。 「兄さん——よく、ここへ」 「私が牢から出してやったのじゃ」  ミランダが、ちら、と侮蔑の視線を左横のマシューに走らせた。彼は大型の弩《いしゆみ》を構えていた。 「私は地下からこの城に忍び入った。防御機構など子供騙しも同じよ。そうして、地下牢のひとつに、この坊やを見つけたのじゃ。本当に会うたびに世話をかける男——いいや、子供であることよ。見捨てるつもりであったが、あまりに気の毒じゃと連れてきた。ついでに護衛のひとりから武器も頂戴した。そこにおれ、動くなよ」  この伯爵夫人の超感覚をもってすれば、一同がここにいるのを探り出すなど、造作もないと思われた。  白い顔がブロージュの方を見た。紅い筋が眉間から顎先まで走る顔が。愛用の白いドレスは赤く染まっていた。 「話は聞いた。ブロージュよ、もはや、ヴァルキュアめを妨げる術はない。“神祖”の力を得た以上、Dですらそれは不可能じゃ。によって、ここは我らの力を合わせねばならぬ」  何たる凄絶な言葉であり美しさであろう。  この美女は、股間から頭頂まで両断されているのだ。  見よ。一歩一歩、ヴァルキュアに向かって歩み寄るその足下には、生々しい血の痕を引いている。  歩きながら、彼女は右手をドレスの胸もとへ入れた。  戻した手のひらに乗っている品を見て、ブロージュが、 「おお!?」  と唸った。それは血まみれの、しかし、鼓動をつづける心臓であった。 「まず、私が——ブロージュよ、後につづけ」  言うなり、ミランダは投擲の姿勢を取った。  その身体が大きく痙攣したのである。発条と矢が空気を断つ音は、その後からした。  左胸から突出した鉄の矢の根本から、赤黒い染みが広がっていく。 「兄さん!?」  スーは茫然と弩を構えた兄を見つめた。 「駄目だ……ヴァルキュア様に、そんなもの……ぶつけちゃあ」  憑かれたマシューの瞳は、彼の胸に残る大貴族の影響力を物語っていた。  だが、彼を救おうとした貴族へ、彼を狙う貴族のために矢を射ち込むとは、あまりといえばあまりの変節ぶりではないか。  ミランダは矢を掴んだまま、一、二歩歩いた。しっかりとした歩調であった。マシューの方をふり向いて笑った。 「心臓を貫かねば、私は滅びぬ。そして、心の臓はこれじゃ」  言うなり、彼女はふりかぶったままの右手をふった。  それは、ヴァルキュアの小球にぶつかり、凄まじい白光を放ってともに消滅した。 「ブロージュ、あとはまかせたぞ」  そして、赤いドレス姿は、どっと前のめりに倒れて動かなくなった。心臓を失った刹那、不死の生命も終焉を迎えたのである。  非業ともいうべきその最期を見つめてから、ブロージュは凄まじい眼差しをマシューに当て、 「こんな人間を守らねばならぬのか」  と言った。血を吐くような言葉であった。彼は唇を噛んだ。歯はそれを食い破り、鮮血がこぼれた。 「だが、貴族のひとりとして、わしは約定を守る。Dよ——二人はまかせたぞ!」  巨体が地を蹴った。  マシューは、まだ狂っていたに違いない。弩は伯爵を狙い、マッハの矢を放った。  銀光が空中でそれを撃墜し、マシューの前に舞い降りたDの刀身と化して、若者の頭頂にその峰を打ち込んだ。  跳躍したブロージュの手には、刃渡り三メートルもの長剣がふりかぶられていた。ガウンの下にさげてあったのだろう。ヴァルキュアの頭上からふり下ろされたそれは、彼の左手で受け止められた刹那に消滅した。左手の前に浮かんだもうひとつの小球——ヴァルキュアの血玉によって。 「やはり、及ばぬか。だが、わしの血も曲者《くせもの》ぶりは劣らぬぞ」  ブロージュの身が反転した。“絶対貴族”に背を向け、彼は左手をDへとのばした。 「剣を貸せ!」  マシューを打ち倒した長剣を、Dは放った。  それをひっ掴むや両手で逆しまに握りしめ、 「ヴァルキュアよ、これがわしとミランダの力だ!」  天地を揺るがす絶叫とともに、伯爵は我と我が身を刺し貫いていた。  貫通した切尖が、測ったようにヴァルキュアの心臓へのびる。こちらも待ちかねていたかのごとく、重力場のごとき血玉が上昇して迎え討つ。  切尖は血まみれ——ばしゅっと弾けるような音をたてて血玉は消滅し、必殺の刀身は狙い違わずヴァルキュアの心臓を刺し通していた。ブロージュの心臓を貫き、その血を吸った刀身が。  ヴァルキュアの喉から、断末魔以外の何物でもない叫び声が弾き出されるや、彼は仰向けに倒れた。  両手で刀身を掴んで引き抜こうとする。ブロージュの胸の厚みと、二人の距離を考えれば、体内に埋没した刀身の長さは二〇センチにも足りない。  抜けなかった。そればかりか—— 「ほう、食い込みつづけておるな」  と嗄れ声が指摘したごとく、ブロージュの血を塗ったDの刀身は、ヴァルキュアの奮闘も空しく、じわじわと重なり合った二人の体内へ潜り込んでいくのであった。  力尽きたか、ヴァルキュアの右手が刀身を離れて空中へ上がった。  漂う霧がそれを包んだ。  一秒——二秒——力なく手は落ちた。  スーはDのもとへと駆け寄った。マシューのことを気にする前に、 「死んだのかしら?」  第一の関心事を口にした。ヴァルキュアのことである。 「いいや」  と左手が素っ気なく言った。 「拳を握っておる」  スーの眼が、ヴァルキュアの手とそこからこぼれる白い断片に気づいたとき、“絶対貴族”の両眼が黄金のかがやきを放って開いた。光は虚空へと放たれた。地球外生命体の応答を待ち受ける壮大な虚しい試みのように、それは黒天と地上とをつないだ。 「マシューを連れて外へ出ろ」  と告げて、Dは白木の針を抜くなり、ヴァルキュアの心臓へ投げた。  触れた、と見えた刹那、逆進してきたそれを、Dは左手をかざして受けた。五本の針は手首から肘にかけてを貫き、鮮血を迸らせた。  その手を下ろしたとき、Dは、長剣を生やしたままのブロージュの死体を足下に、仁王立ちになり、なおも虚空へと顔を仰向けたヴァルキュアを見た。  嗄れ声が、真の驚きを秘めて、 「彼奴、自らの死を記したアカシア記録を握りつぶしたのじゃ」  と言った。 「そのとおりだ」  とヴァルキュアが応じた。声は唇を動かさず、直接、Dの脳に伝わった。 「わしは精神感応《テレパシー》を身につけた。どうやってかわかるか? レーザーよりも速い超光波通信によって他天体の生物から授与されたのよ。ほら、まだまだあるぞ。どうやら、彼らも知識と能力の交換によって、自らの存在を明らかにしたい欲望には勝てぬと見える」  Dが走った。 “絶対貴族”は地球外文明の力まで身につけつつあった。彼がそれこそ真の“絶対存在”になる前に斃さねば!  疾走しつつ、右手を下げた。指先がすくい上げた長剣を握るや、まさに必殺——鍔もとまで心臓を刺し貫いた。  一瞬、超光波の通信は途絶えた。 「おお、力が抜けていく。これは“グレンキャリバー”か」  ヴァルキュアの魔刀、自らの主人を貫く。 「滅びた」  とヴァルキュアはよろめいた。 「わしは滅びた……いや、滅びたであろう。……昔なら。Dよ、わしは千無量万大数《たいすう》キロの彼方から、不死の力を得たのだ」  音もなく、“グレンキャリバー”がDめがけて飛んだ。  Dが柄を握り止めるや、ヴァルキュアの閉じた眼は徐々に開いていった。  瞳はなく、黄金のかがやきだけが詰まっていた。    3 「アカシア記録を自在に操り、宇宙の果てと意思を通じる——Dよ、わしはもはや生き物とはいえぬ」  ヴァルキュアの声は朗々と鳴り響いた。白い霧の奥に黄金の光点がかがやいていた。記録の漏出は激しさを増しているのだった。 「では、何だ?」  Dは訊いた。ヴァルキュアの驚嘆すべき宣言も、それを支える不可思議な気迫も、この若者の精神にはいささかの影響も与えられぬようであった。 「ここに在《あ》るもの——“存在”と呼べ」 「進化の究極といいたいわけか?」  それは嗄れ声であった。嘲るように、 「別名——成れの果てともいうがの」  ヴァルキュアの両眼が左手を見つめた。 「うおおお」  悲鳴を放って小さな顔が手のひらに沈み込むと同時に、Dは横殴りに“グレンキャリバー”をヴァルキュアの首に叩き込んだ。  手応えは伝わったのに、彼は倒れなかった。Dの右手が小さく痙攣した。何とも異様な手応えだったのである。  その脳を灼熱の激痛が灼いた。  声もなくのけぞる黒衣の若者へ、 「ふむ、美しいものの断末魔とは、これでなかなか愉しい見物《みもの》だな。しかし、それはわしがまだ真の“絶対貴族”になり切っていない証しだ。美しさごときに捉われてしまうとは」  片膝立ちで耐えるDに、スーが駆け寄った。 「D——しっかりして!」  ヴァルキュアの方をふり向いた瞳は涙で濡れていた。 「もうやめて。ブロージュ伯爵もミランダさんも、みんな消えてしまった。私たちを守るために。もうやめて。私、どうなってもいい。母さんのところへ行けば済むことだもの。——この人を助けて」  その健気な、しかも、魂の叫びともいうべき言葉を、霧に巻かれていたヴァルキュアは聞いた。  彼はうなずいた。 「よい心がけだ。わしの目的もおまえたち二人。よかろう、Dは助けてやろう。ただし——Dよ、その娘の血を吸え。そうしたら、おまえの生命は保証するぞ」  スーの両眼から涙がこぼれた。何かに押し出されたかのように。その奥からせり出してきた光は——純粋な怒りであった。  スーを守ろうとする者に、守るべきスーの血を吸えとは、何という残虐な仕打ちか。 「違う、違う、違う」  スーは激しくかぶりをふった。眼前の貴族は、断じて認めてはならない存在であった。マシューがミランダを手にかけた瞬間、彼女の洗脳は解けたのである。 「あなたが絶対[#「絶対」に傍点]なんかであるものですか。あなたはただの——分不相応な力を得てしまった化物よ。その力を正しくコントロールすることもできやしないんだから」 「できぬ? このわしが自らの力をか? これは異なことを——」  瞳のない黄金の眼がスーをねめつけ、その前を一片の霧片《むへん》が漂ってきた。 「ほほう、すぐに面白いことが起きる、とアカシア記録が告げておる。人間も、これでなかなかあきらめぬものだな」  彼は右足を上げた。  そのとき、何処かで誰かの指が、あるボタンを押した。 『都』の地下一万メートルの地点に設置された超地震発生装置は、凝縮した大地震の“情報”を、北部辺境地区へと光速で伝え、その中心部の真下——わずか一〇〇メートルの深さで“公開”した。  一兆ジュールのエネルギーは、ヴァルキュアの王国のみならず、辺境地区全体を崩壊へ導くに足る量と思われた。  ヴァルキュアは軽く足を下ろし、 「これで人間との関係も断った」  と言った。この瞬間、超地震のエネルギーは跡形もなく消滅したのである。  小惑星を消し、地下の大エネルギーをも虚無と化せしめる貴族——彼は大宇宙の歴史さえ自在に“書き”換える力を持ったのである。  誰が斃せる? 誰が戦える? 「ほう、いつの間にか、このハンターの美しさも気にならなくなったわ。もうよかろう。——Dよ、血を吸え。そして、何事もなかったことにして、この地を去って、貴族狩りをつづけるがよい。わしはもはや、人間など相手にせぬ。この城で、宇宙の大知性と語り明かしながら、永劫に挑んでみよう」  両肩に、たくましい力が加わるのをスーは感じた。  背後の若者がどんな顔で自分を見ているのか、知りたくなかった。 「いいの、D」  と言ってから、きっとヴァルキュアをにらみつけて、 「あなたはまだ、私を憎んでいるわ。その精神《こころ》が失くならない限り、あなたは絶対[#「絶対」に傍点]なんかじゃない」 「D」  とヴァルキュアが促した。 「アカシア記録にも書かれておる。わしの指示どおりのおまえの運命がな。——吸うがいい」  スーは眼を閉じた。  白い霧が世界を巡った。  首すじに熱い息がかかった。  この男《ひと》の血も熱いに違いない、と思った。不思議な安らぎがスーを包んだ。  右肩が不意に軽くなった。  Dは前方に手を上げ、何かを掴んだ。 「貴様——!?」  ヴァルキュアが愕然と叫んだ。  彼は霧の奥に燃える二つの光点を見た。彼の血を凍らせるほどに赤い——Dの双眸だ。 「き、貴様も——アカシア記録を変えるのか!?」  スーは左肩にかかる手のあたたかさを感じた。それはまぎれもなく、彼女を守り抜いてきた男のたくましい手のひらであった。 「裏切ったな!」  ヴァルキュアの叫びは誰に向けられたものか。  彼は身を沈めて、塵と化したブロージュの胸もとに横たわるDの一刀を掴んだ。  その頭上から舞い降りる黒い美影身。それはヴァルキュアの眼にもスーの瞳にも、美しい魔鳥のごとく見えた。  そして銀光——かっと鋼の打ち合う音がした。  ヴァルキュアは刀身を頭上横一文字に掲げ、Dは拝み斬りに斬り下げた姿勢で立っていた。  すっと霧が縦に裂け、同じ形にヴァルキュアの頭頂から喉もとまでが左右に開いた。  ヴァルキュアは刀身を捨て、両手で側頭部を押した。身体はつながった。  その口が開くと、数個の赤い球がこぼれ、Dへと漂い流れた。  Dの“グレンキャリバー”が跳ね、血の球は地上に落ちて、平凡な赤い跳ねを散らした。 「聞くがよい」  とヴァルキュアは言った。  頭頂から眉間を割り、鼻梁の中心から唇を通過した朱線は、もはや消えなかった。ヴァルキュアがひとこと放つごとに、それは太さを増し、血を噴いた。ガウンは黄金とはいえなかった。 「聞け、Dよ」  と“絶対貴族”はつづけた。 「わしは“神祖”によって造られたものだ。“神祖”は言った。成功したのは、おまえだけだ、と。その意味をわしは知らなんだ。わしが殺戮に狂い出したのは、その意味とその運命の果てに待つ絶望を知った五千年後のことよ。奴はもはや、唯一の成功例とはいわなんだ。それは別の者に与える、と奴は告げた。そして、わしの運命もな。それを知ってから、わしは戦わねば、殺さねば生きていけなくなったのだ。Dよ、滅びがある限り、貴族もまた絶対ではあり得ぬぞ」  どっと顔が裂け、あふれる鮮血が床に跳ねた。手がゆるんだのだ。  ヴァルキュア大公——“絶対貴族”の力は、いま尽きようとしていた。  ふと、彼は頭上をふり仰いだ。千億の星々が宙天にあった。 「あの中へ放逐されている間に、わしは様々なことを学んだ。貴族のことも、人間《ひと》のことも、その思いも——Dよ、わしは地上へ戻りたくはなかったぞ」  鋭く咳き込み、彼は血を吐いた。血は空中でひとつの小球に変わり、音もなく滑り出した。スーの方へ。 「誰が戻した?」  とDが訊いた。 「それができるのは、ひとりしかおらん。彼奴の狙いは、わしを斃すことにあった。いまこそわかる。彼奴はわしの中におるでな。宇宙《そら》の奥へと放ったままでは、いつ戻るかと不安を感じたのかも知れぬ。或いは宇宙そのものの脅威になるかと怖れたのかも知れぬ。五千年でわしを戻したのは、Dよ、おまえがいたからだ。“絶対貴族”を斃し得る男——唯ひとつの成功例が」  いまやスーの眼前に迫る血の球に気づかぬのか、Dは身じろぎもしなかった。  スーもまた。その眼から、新たな涙が溢れようとしていた。  ヴァルキュアが右手を翻してふった。  血の球は弾けた。 「おお、ついに」  と“絶対貴族”は虚空をふり仰いで叫んだ。瞳も表情も、人外の歓喜に燃えていた。 「——わしは憎しみのレベルを越えた。これでおぬしの望みを叶えたか“神祖”よ。わしは——いま“絶対貴族”に——」  次の瞬間、彼の身は縦に裂け、赤い海底と化したかのような血の奔騰とともに、その場へ崩れ落ちた。 「成功だ」  とDが低くつぶやいた。 「いいや、失敗だ」  と声が言った。  ヴァルキュアの立っていた位置に、あの男が立っていた。“神祖”の顔で。それは同時にヴァルキュアの顔であり、Dの顔とも見えた。 「成功例は、おまえだけだ」  と彼は言った。 「だが、いまだ完璧とは言えぬ。おまえの精神は強いが甘すぎる。そのために——」  Dの背後で気配が動いた。 「マシュー!?」 「——何をする?」  とDは男から眼を離さずに訊いた。 「何処へ行くの!?」  スーには霧の中を遠ざかるマシューが映っていた。 「アカシア記録の保管庫へ向かったのだ」  と男が言った。 「あの若者は、わしの——ヴァルキュアの本質を脳に植えつけられている。わしの遺志を継いで、記録の修正を強行するだろう。わしはまた甦り、世界は変わるかも知れん」  スーを小脇に抱いて、Dは走り出した。  噴きつける霧の向うに黒い影がおぼろに見えた。 「D——もしも、もしもよ」  スーが必死で顔を上げた。 「どうしても、マシューが元に戻らなかったら、アカシア記録を狂わそうとしたら——」  声は途切れ、スーは唇を噛んだ。 「君たちを守る契約だ」  すでに四方は霧に包まれ、それでいて、自分たちが途方もなく広大な場所にいることをDは意識した。  左腕に重さは感じられなかった。スーは影も形もない。アカシア記録の保管庫に、人間は入れないのだった。  マシューは前方にいた。目測では一〇メートル。しかし、距離は無限だった。  マシューは霧をちぎるように両手を動かした。  Dは無言で走った。  マシューがこちらを見た。唇は笑いの形に歪んでいた。 「来れないよ、D」  と胸を反らして言った。 「わかっているだろう。僕は“神祖”の力の一部を得た。そして、ヴァルキュア様もいる。あんたひとりじゃ、どうしようもないんだ。ははは、読めるぞ、アカシア記録がみんな。ヴァルキュアが言ってるよ、自分を甦らせろって。“御神祖”はもっと凄い。この世界を記録から抹殺してしまえとさ。面白いじゃないか、D。おれはどっちを——」  マシューは哄笑した。彼は最初から歪んでいたのだ。“神祖”といい、ヴァルキュアという。だが、それを受け入れ従っているのは、誰が見ても彼自身の脆弱な精神《こころ》なのであった。スーに淫心を抱き、それを押さえつけて良い兄を演じて来れたのは、ひたすら母の存在があったからだ。  限りない重さが拭い去られ、真の自己が解放されたとき、彼は貴族の下僕になることを厭わぬ精神の自分を発見した。  貴族の持つ力と知識。それを得た弱い人間の典型的な反応を示して、彼は高笑いを放っているのだった。  記録が読める。全宇宙の、過去と現在と未来にいたるすべての出来事が—— 「そうだ、D、あんたの正体を暴いてやろう」  邪悪な相がマシューの顔全体に広がり、彼は右手を胸前に突き出し、空中から霧の断片をつまみ取った。  記録は好きなときに好きなものを、好きな場所から取り出せるのであった。  霧を見つめるマシューの表情がみるみる変わった。 「まさか……まさか」  驚きのあまり喪神しきった顔がDを見つめた。彼はすでに二メートルまで近づいていたが、マシューは気にしなかった。目視では二メートルでも、二人の間には無限の隔たりが構成されているのだった。 「スーをどうする気だ?」  とDが訊いた。 「スー? 誰だい、そりゃ? そんなことより、驚いた……あんたがまさか……ん? スーか? スーなら、あれだ、後でゆっくり抱いてやるよ。そうなるように、記録を動かして。本当は、おれ、あんたにここで斬られちまうんだが、それも変えてやる。安心しろ。ちゃんと抱いたら、あいつが舌でも噛んで死ぬように細工を——」  止まらぬ笑いの鼻先に、びゅっと銀光が躍った。 「ひい!?」  と、のけぞり、マシューは鼻の頭に手を当てた。  赤いものがしたたった。 「斬ったのか?」  紫の狂気は白い恐怖に化けていた。 「どうして斬れたんだ? おれとあんたの間には——」  彼の眼は赤く燃えた。それはDの眼であった。  怒りに吊り上がった狂気の眼、朱唇からのぞく牙——まぎれもなく、それは吸血鬼の顔であった。 「D——やめろ、あんたはやっぱり、御神祖の——」  声を白光が断った。  マシューが倒れる音を聞きながら、Dは足下に転がったマシューの首に眼をやった。 「自業自得かの」  と疲れたように嗄れ声が聞こえた。 「だが、これでは、契約を——それもやむを得んか」 「契約は守る」  とDは言った。 「はん?」  訝しげな声と美影身の周囲で白い霧が愛しげに、恐ろしげに渦を巻いた。  ひと月ほど置いて、『都』から新たな調査団が、ヴァルキュアの王国へ派遣された。  彼らが見たものは、茫々たる大地と貧しげに点綴《てんてつ》する木立ちからなる、まさしく辺境であった。  ただ、荒野のほぼ中央に当たる岩石地帯で、半ば岩に埋もれた小さな赤い球体とひとふりの長剣が発見されたものの、どちらも異様に重く、トレーラーが総がかりで引いてもびくともしなかったため、写真のみ撮ってその場に放置された。  見渡す限り灰色の荒野の果てから吹く風に、隊員たちは揃って身震いし、改めて、すべては夢ではないかと疑った。ひと月前、この地に存在した王国のすべてが、その球体に凝集されているとは、無論、気づくはずもなかった。  五年後、スーはマシューとこの上なく見事なタッグを組んで経営していた故郷の農場を離れ、東部辺境区の楽器屋のもとへ嫁ぐことになった。マシューが赤い髪の娘を嫁に貰ったこともある。力はないが、あたたかい心根の町娘だった。 「おれみたいな男でいいのかね?」  と照れ臭そうな三つ年上の楽器屋へ、 「亡くなった母さんが、あなたみたいな人と一緒になれと言ったのよ」  とスーは微笑した。  それから、ふと、本当にそうだったかな、と胸の裡《うち》で自問した。マシューと力を合わせて“絶対貴族”を斃してから、さざ波のような疑念が、時折、精神の水面を波立てるのだった。  何処かが違っているような。  本当の人生は、こうではなかった、というような。  それは一生離れぬ疑惑に違いない。それならそう覚悟すればいいと、スーは納得した。  愛する者と過ごす人生の中で、そんな疑問がどれほどの負担になるだろう。どうってことありゃしない。  やがて結婚し、子を産み、育て、マシューの死を聞いて年老いていくうちに、スーは時折、不思議な夢を見た。  黒ずくめの世にも美しい若者が、白い霧の彼方から、じっと彼女を見つめているのだった。  氷のような冷厳な眼差しが、スーには少しも怖くなかった。見るたびに、その胸は少女のようにときめいた。そして、必ずこう繰り返すのだった。  大丈夫、しあわせな一生だったわよ。母さんの願ったとおり。  すると、美しい若者の唇にかすかな笑みが浮き、スーはそれを浮かばせたことを、夢見るたびに誇りに思うのだった。それはそんな微笑だった。    『D—邪王星団4』完 [#改ページ] あとがき 『D—邪王星団』の最終巻である。四巻で終わり、担当のI氏は大喜びであろうが、真の厄介事は、なあにこれからだ。 『D—邪王星団4』本篇を先に読んだ方はお判りだろうが、どうもDが危い。実にビミョーな立場にいる。ここから作者は、即座に新たな物語を考えついてしまった。つまり、I氏の苦労はまだまだつづくのである。  今回、私は頑張った。一日一章分やると決心し、最後の二日間はダラけてしまったものの、とにかく指定の締切り日より四日も前に上げてしまったのである。快挙だと本人は思っているのだが、I氏以下、ソノラマ編集部では、香を焚き、蝙蝠の爪やヒキガエルの油を用意して魔除けの黒ミサを行ったらしい。何たることだ。  私が頑張ってしまったのは理由がある。  昨年末の忘年会で、I氏は壇上に上がり、なんと、待ち構えていた外谷さんに首を絞められたのである。こういうことがあるから、忘年会は面白い、いや、怖い。  失神寸前までいったI氏を、外谷さんはお尻でつぶそうとしたが、私と相棒のI野氏に邪魔されて果たせず、 「くそ、あと五秒でイったのに」  などと終日口走っていた。  私が今回、いつになく頑張ってしまったのはこういう理由である。I氏に深く感謝し、哀悼の意を表したいと思う。  そこで、Dについてであるが——などと書くと、おっ、いよいよ物語を貫く謎が、と期待される方も多いだろう。そうはいかないのである。作者もまだ、明かすかどうか迷っているのと、読者の方々は、とうの昔に気がついているんじゃないかと疑っているからである。  読者に勘づかれている以上、思わせぶりに小出しな態度を取るのも阿呆みたいであるが、案外、わかってねーかなという気もするので困ってしまうのである。  ここは出方を見ようというわけで、次回のDは、D個人とあんまり関係ない大活劇が、思わせぶりな謎とともに展開する話になる——かも知れない、のであった。 平成十三年四月初旬の夜 「ブレイド」を観ながら    菊地秀行